家庭の窓
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「また漫画を描いている。少しは勉強しなさいよ」。そんな母親の小言を聞きながら,部屋の片隅で漫画を描き続けた少年が,成人してから文化人類学者になって,アフリカの未開地に出かけては,研究のために長期滞在をしばしばすることになりました。
はじめてアフリカの原住民と一緒に生活をしたときのことです。敵意は示さないものの,遠巻きにして見守る原住民に囲まれて,なかなか研究に取りかかれないでいました。
原住民の言葉は全く分からないし,彼らも日本語はもちろん,英語もフランス語もわからないし。
どうやってコミュニケーションを図ろうかと途方に暮れていたとき,原住民が地面を指でなぞり合っているのをふと見かけました。「そうか! 初めから音だけに頼っているからよくなかったのだ。目があるじゃないか」。
小さい頃から好きだった漫画を描くことを思いついて,俄然元気が出てきました。象の絵を描くと,口を揃えて「○○○」という。バナナの絵を描くと「×××」といった具合でした。こうして学者の山口昌男は原住民とかなり高水準の意志の疎通を図ることができるようになりました。
現物を離れて符号となった言語は,共同生活をしている者の間でしか分かりあえません。若者言葉や方言が通じないことで経験することです。ところが,具象である絵は事物を見知っている者同士なら通じます。文字本よりも漫画のほうが分かりやすいと,子どもたちも選択しています。
人の喜怒哀楽といった感情も,顔の表情として描き分けることもできるでしょう。でも,悲しいということは分かっても,何が悲しいのかは分かりません。形のない物事は絵にはなりません。言葉という表現を使うしかありません。その言葉はお互いの経験を結びつけてくれます。暑いと言えば,夏の日ざしが共感できます。生きていく中で経験するあらゆることは,言葉に翻訳されていきます。同じ環境にいる者だからこそ,言葉は通じます。
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