家庭の窓
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フランスの大作家アレクサンドル・デュマは浪費のため晩年は不遇で,病に倒れて息子の小デュマに養われていました。ある日,洋服をタンスにしまい込んでいたお手伝いさんが,ポケットにナポレオン金貨一枚があるのを見つけました。デュマは息子に「五十年前に私がパリに出てきたときに持っていたのは,それくらいの金だった。結局,一文も減らさなかったわけだ」と,自分の一生を自分で使いきったという満足感を語りました。
その頃,息子が「三銃士」や「モンテクリスト伯」を褒めると,デュマは「それほど面白いなら,私も読んでおけばよかった」と言って,息子をあぜんとさせました。「私は書く方に忙しかったから,読む暇が無かったんだよ」と笑いながら付け加えました。そこで,息子は病床に父の小説を持ってきました。読み始めたデュマは「なるほど,これは傑作だ。だが,読み届けるまでは生きていられないかもしれないな」といい,自分の死をユーモアで飾っていったのです。
デュマとは違った状況が,この情報社会で誰にでも起こっています。ネットで書き込む作家の立場と,ネットで読み取る読者の立場が日常になっています。そこでは,発表の場を誰もが持つことができて,何らかの意図を持った文章を世間に向けて簡単に表明することができます。そこに作家という立場にいるという認識が無ければなりません。つまり,読む人に対してきちんと思いを伝えようという意図を添えるという自覚です。だからこそ,読む人は文章を自分なりに受け取ることができます。
ただ残念ながら,作家であることを意識していない発信が溢れているところが問題になります。何らかの文章を公開するには,それなりの気配り,配慮が必須です。読む人に気持ちよくきちんと伝わるように推敲をする礼儀があります。ただ独り言を言っている状況ならまだしも,その気も無いまま厚かましく特定の人に向けて文書を突きつけるのは無礼なのです。誹謗中傷のような悪意の文章は言語道断です。炎上という言葉の無作法は,犯罪の様相をおびていると気遣いすることにします。
本を読む際に,時を置いて二度目,三度目となると,違った箇所に引き寄せられます。書き手と読み手の波動が一致するのはごく一部であり,それも時によってずれていくということです。書き手は何気なくさらりと書いたとしても,読み手の深いところに届いて行くということがあります。そういう一点だけでも読み取ることができれば,よい出会いになります。なんとも触れ合いがなかった文章でも,時を置いて読み返してみると,違うかもしれません。書き手がそういう経験をしているのですから。
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