家庭の窓
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肥後藩で細川重賢は質素倹約と殖産興業の策で宝暦の改革を行ないました。ある年,菩提寺を訪れた際住職の松洞和尚がご馳走のつもりで豆腐に紅で色をつけたりしてもてなしました。重賢は「このような田舎においてまで,食物に無益な工夫を施し,そのために金を使い,暇を潰すとは実に嘆かわしい。どのようにしようと豆腐の味に変わりはあるまい」と,和尚を叱りました。
また,和尚が共に食事をした折に「殿,近頃は当国でも大変豆腐の作り方がうまくなりました。都のものと比べても決して劣りませぬ」というと,重賢は「田舎は田舎らしいのがよいのではないか」と不機嫌に応じたといいます。質素な改革を実行した面目躍如な話です。
田舎という単語を「だしゃ」と読んで,形容詞化して「だしゃい」と読んだものが転じた結果,ダサいという言葉になったとする説があります。「恰好悪い」「野暮ったい」「垢抜けない」などといった意味を持つ俗語とか,"イモ・田舎者"の意で地方出身者を揶揄する言葉として,「カッコ悪い、最悪の意味」であるともいわれています。
田舎者とは,文字通り,田舎の人,田舎育ちの人,田舎から出てきた人という意味の他に,粗野で教養のない人をあざけっている意であったり,自分自身をへりくだっていう意もあります。ダサいは,あざける意を強調した不美な言葉です。田舎者は都人のような礼儀作法を弁えないといったような思い込みが古来からあるようです。素朴な田舎と華美な都,その対比はそれぞれ異なった価値であり,優劣を指し示すものではありません。
昔は田舎と都はとても離れていて,それぞれで生活できていましたが,現在の生活空間は情報技術のお陰で田舎と都は一体化してしまい,それぞれではいられなくなってしまっています。多様性という現実の一つの事象として組み込まれています。多様性とは,それぞれの特徴である「らしさ」が共存できる包容力によって,豊かな風情を醸し出してくれるはずです。
かつて,地方の活性化に「よそ者,わか者,ばか者」という人が力を発揮できるといわれることがありました。住んでいる人でいる人は見えている世界が固定しているので,そうでない人の視点を取り入れることで,新たな発展が期待できるということです。今では情報化の中で「所変われば」という情報が溢れているので,人を介する展開でなくても可能であると言う人もいます。ただ,知ることとできることの間には,人の意気込みがあります。多様な人の存在意義を忘れないことです。
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