家庭の窓
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「少年よ,大志を抱け,この老いぼれのように」。クラーク博士が残した言葉は,戦時体制の中で後半を削除されて流布されました。志という概念は今の少年には意味不明になっているようです。かつてに比べれば格段に豊かな暮らしの中で,志を持たなくてもそこそこに生きていけるような状況があります。とはいえ,芯がないという印象は否めません。
独楽が心棒をすっくと立てて,まるで止まっているようにピタッと回転する姿は,見る者にきりりとした爽やかさを感じさせます。心棒が曲がっていると独楽はガタガタしますし,バランスを壊して倒れ,床をはいずり回ります。志は人の心棒であると思えば,姿の違いは相似しているようです。
いつからこのように志が吹き消されていったのでしょう? クラーク博士の言葉は,お年寄りが若者に志を伝えることを示唆しています。残された時間を考えると,お年寄りが志を抱くことは馬鹿げています。しかし,それこそが若者に残すべき遺言であるはずです。
お祖父ちゃんの思いを受け継ぐことで,孫は心棒を持ち得ます。逆にいえば,お年寄りが時代を引き継ぐ若者に最も相応しい志を選び抜いてくれているのです。お祖父ちゃんの志のように見えていても,実はお祖父ちゃんが若者に贈る志なのです。
命長らえて一体何をしているのでしょう。温泉に浸かってのんびりして,余興に興じ,自らの楽しみを追い求めている姿には,志は微塵もありません。年寄りというだけでそれなりの立場を与えられていながら,心棒になろうとしない無為さ加減を見せつけています。「少年よ,勝手に生きていたら,この老いぼれのように」。確かに,その通りに若者は育っています。
いろんなことが時代のせいにされます。時代が変わった! その一言でカタがつけられていきます。時代を作っているのは人であるという事実を忘れています。時代が変わったのではなくて,人が変わっているのです。誰でもない,自分が変わったせいで,時代が違って見えるようになっただけです。
志とは人が時代を作るという覚悟の上に成り立つものです。人が歩んできた歴史はその時代の人が心血を注いで選び出してきた足跡なのです。だからこそ,時代の連続性が維持されてきました。
時代に流されている者には志など思いも及びません。自ら選び抜く努力を忘れ,時代に流されているという安逸を貪っていては,若者に残す志はなく,若者が迷うのは必然です。時代の断絶による痛みにのたうち回っています。
自分一人で何ができる? そんな懐疑に留まっている限り,状況の改善は起こらないでしょう。やれるかどうか分からないけれど,やってみる価値はある,そういう志を持つとき,人は凛とします。
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