《有難い 場に相応しい 言葉聞き》

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 吉田松陰が叔父の塾を受け継いで開いた松下村塾からは,杉晋作や伊藤博文などの優れた人材が輩出しました。授業内容は当時の先端的な学問をみっちりと学んだことと思われますが,決まったカリキュラムはなかったばかりか,昼夜の別もありませんでした。独自に松蔭の指導を受けながら勉強したということです。
 例えば,松蔭と塾生数人がコタツに入って漢詩を作ったり,3,4人の塾生が集まって「日本外史」を輪読したり,庭で草むしりや餅つきをしながら松蔭の話を聞いたりしました。松蔭の話を聞くことが勉強だったのです。
 時には,野外に出て,西洋銃の稽古もした。場所は家のそばか河原で,銃の代わりに竹を使っていたそうです。松蔭が大きな声を出すのは,この西洋銃の稽古だけだったといわれます。普段の松蔭はまるで婦人のようといわれるほど優しく,丁寧なしゃべり方で「勉強なされませ」というのが口癖でした。
 塾生を叱ることはほとんど無かったようですが,たまに怒ると,のちに文章を書いて渡しました。決して怒りっぱなしにしないで,怒られたことが塾生のプラスになるようにフォローしました。塾生を優しく包み込みながら,中身の濃い人間教育をしたからこそ,あれだけの人材が育ったのでしょう。
 学校のように,決まった場所と決まった時間という枠の中に呼び込んで教えるという形ではなく,共に行動し感じているという実感の場であったからこそ,師の言葉が塾生に命ある意味を伝えることができたのでしょう。同じ立場でその場にいるからこそ,お互いに分かり合える言葉が交わされて,相手に真っ直ぐに伝わります。伝えたと伝わったとの違いは,場を共有できているか否かにあります。
 情報社会の中で言葉が行き交っていますが,発信者と受信者は全く無関係な別世界にいるのが常態です。例えば,気象情報で台風の中から伝えられる声を聞いている人は,リビングでくつろいでいます。聞こえてきた言葉は素通りして,数秒後には消えていってしまいます。共感という確認プロセスが機能していないからです。場を共有し直に言葉を交わす機会を大事にしたいものです。

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(2023年11月12日:No.1233)