《有難い 現実に見る わが報い》

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 とある地域の公民館を訪ねたとき,壁面に子どもたちのポスターが掲示されており,みんなの人権というタイトルが張り出されていました。数枚のポスターには「みんな違って みんないい」という文字が描かれています。公民館はみんなの施設であり、みんなが集まる場所です。ごく普通の風景です。
 ところで,この場所を訪れた意図は地域福祉という目的に添った活動の推進でした。福祉に関連する施策はその費用が肥大化する一方で,限界に直面しています。人口減少という傾向を背負っている国という枠の中ではとても抱えきれなくなっています。そこで,福祉の世界では人々が抱える課題を地域のみんなが我が事として受け止めて「共助・互助」を進めるという方向性を打ち出しています。地域福祉の勧めです。
 今の住まいは,個室に分かれています。子どもは子ども部屋に隔離されています。各家も,縁側と植木の垣根で近所に開かれていた昔の住まいと違って,それぞれブロック塀に囲まれ玄関にはインターホンが設けられています。人との触れ合いにはきちんと壁があり,個の独立が確固としています。一方で情報社会の特徴として,どこの誰とも見分けることのできない○○友や□□サイトと間接的につながっています。その不特定多数は日本語を使う人であり国民,その先の国という認識になっています。
 普段に付き合っている仕事関係者や生活関連での出会いは別として,私という個人とみんなという国民との関係意識が強くなっています。古いサラリーマン川柳に「その仕事 皆でやろうと 人に投げ」というものがありましたが,皆の中に私は入らないのです。かつては日常に生かされていた家族や親戚,近所の知人という私を囲む関係,すなわち私たちという集団認識が消失しています。
 袖振り合うも他生の縁という言葉で,近くで行き交う人ともご縁があると信じていた人たちがいました。だからこそ,いつも側にいる地域の人とも他生の縁をもとに「私たち」が意識できていたはずです。人とのつながりを求めようとしていた暮らしが,曖昧なつながりを面倒に感じて回避し個に向かいたいというものに変化してしまいました。趣味のつながりなどのはっきりとした縁だけを基にした私たち意識だけが生き残っていますが,人としてのつながりに深まることは期待できません。
 地域という枠で期待される私たちが存在しない状況で,地域福祉という課題の道は険しいようです。冒頭のみんなの人権もみんなそれぞれに人権を享受したらと突き放しているようで,響いてきません。このような世の中になったのは,今の高齢者が我だけの暮らしを優先し,次世代に私たちの暮らしを引き継ぐことを疎かにした結果,世代の断絶を受け渡してきた報いです。福祉を期待できない地域を招いたのは自業自得と気づいてくれるといいのですが。

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(2024年01月14日:No.1242)