《有難い 触れ合う暮らし 意識して》

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 今の暮らしは,身近な世界が空虚になっていると感じてしまいます。身近な世界,それは例えば,隣近所という物理空間をイメージします。社会的には地域世界です。そこには,かつて,こども集団と高齢者集団の暮らしがありました。おじいさんとおばあさんとこどもたちが登場するおとぎ話の世界です。
 こどもについて目を向けていくと,PTAという活動組織が敬遠されつつあり,地域のこども対象の行事からこどもが撤退させられています。日常では,近所という近くで集まりやすい中で生まれる異年齢集団が消滅し,放課後の居場所を奪われたこどもを放置できずに,わざわざサービス事業を設けて囲い込まざるを得なくなっています。おかげで,こどもが集団行動の基本を学ぶ貴重な経験を喪失しています。経験できることとは,年長のこどもが年下のこどもの面倒を見ることで,自分の成長を自覚し,社会への参画の意味を学んでいくことができます。年下のこどもは自分の成長の目標を,年長のこどもの姿に見つけることができます。こどもを育てるという営みに偏している現状は,こどもが育つ営みを奪っていることになっています。群れることで,こどもは居場所を自ら手に入れていたのです。
 高齢者の集団は,地域を基盤とした活動の維持・伝承と次世代の暮らしにつながる目標への挑戦を担っていました。伝統にしている行事に地域の皆が参画することで生まれる一体感が,日常のお互い様という助け合いのつながりを円滑に機能させていきます。また,孫の世代を思い描くことで,例えば植樹をしておくといった,ささやかな希望を暮らしに持ち込むこともできます。地域での暮らしが可能にしていたものは,人の触れ合いというスタイルです。
 情報社会では,地域生活は衰退することになります。現在の情報技術は,視聴覚情報だけに限定されています。人が生きていく上で必要としている情報は,五感によって獲得されるものです。ところが,見る聞くの視聴覚情報が,過去に経験したことのない強大な規模で襲来しているせいで,嗅ぐ,味わう,触れるの感覚が圧倒されて,無反応に陥ってしまいました。特に,触れるという感覚については,触れることが忌避される生活パターンによって,その機能を発揮できなくなっています。
 触覚が他の感覚と大きく違うのは、"感じ方"です。視覚や聴覚ではその刺激は自分の外にあると感じ,触覚の刺激は自分の内の感覚と捉えられているようで,心理学的に触覚は近感覚、視覚や聴覚は遠感覚と呼んでいるそうです。哲学者のマルクス・ガブリエルは,透明化という言葉を使って,視覚や聴覚で感じているはずの自分が透明に,つまり、感じているという意識が希薄になっていると指摘しています。一方,触覚は透明化されにくいので,人の手の温もりは自分が温かく感じているのです。
 SNSのような触覚が働かない世界では,全てが自分事とは感じられないのでしょう。匿名という自分を消去している世界では,触覚が感じ取る人の温もりは欠落してしまいます。身近な世界に意味を感じるのは触覚ですが,その触覚を封じていては身近な世界の存在を感じることはできません。そのような自分が存在しない仮想世界に生きている現代の人は,人が自分につながっているという感覚は持てないようです。
 自分が人のまとまりの中にいるという感覚がなければ,人の集まりの中でスマホを見つめながら,隣に座っている人は存在しなくなります。ましてや隣の家の人など遙か彼方に排除されてしまいます。見ようとしていない,聞こうとしていないのです。自分が今いるところがどこなのか,意識の地図の中で現在地が存在しないので,浮ついてた漂うばかりですが,そのことに気付いていないことでしょう。
 情報社会は人をつなぐように発達してきたはずですが,触覚が伴わない副作用によって,人間らしさを置き去りにしているようです。生身の人間である自分,それを実感できるのは触感の機能と気付くべきです。

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(2024年03月03日:No.1249)