《有難い 今日につながる 明日があり》

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 電車に乗っていると,車内放送で「次は○○」という停車駅の通知があります。ごく普通に聞いていますが,あるときふっと不思議な感じになりました。案内では次の駅だけで,前の駅は言われないのです。「今○○の駅を出ました」とは案内されません。そんなことは言われなくても皆が知っているということなのでしょうか。それを知らされても,何の意味もないということでしょうか。居眠りをして乗り越した人に通知することで,対応を促すことがあるかもしれません。
 人は前向きに生きているからでしょう。過ぎた過去は無視し,やってくる未来に関心を向けています。目も前を見るようについていて,後ろは見えません。見る必要がないのです。過去はどうしようもないからです。前向きに歩いて行く,行動するしかできません。それが時間です。人の一生とはひたすら前向きに未来向きにしか動けないのです。
 人は今日につながる明日に生きているのです。この正月に見舞われた能登半島地震など大きな災害に出会うと,今日の悲惨な状況が明日にどうつながるのか見えなくなります。明日につながっていたはずの今日が壊れてしまったことに呆然とします。明日がとてつもなく遠くに吹き飛んで行ってしまったと思い知らされます。「次は○○です」という声が聞こえない状況に落ち込んでいくのです。救援に寄り添う人が被災者の明日を取り戻してくれるから,立ち直っていけるのです。
 いじめを受けて自殺という道を選んでしまった子どもがいます。後の祭りの第三者委員会でいじめが自殺の一因となった可能性があるものの直接的な原因は特定できないという結論が報告されます。いじめを受けている子どもは何を失っているのかを考えて欲しいのです。明日もいじめに遭うかもしれないという固定化した思いによって,今日につながる明日が奪われているのです。「次はいじめです」と言われ続けているのです。この案内の声こそがトラウマであり,絶望に導いているのです。
 人が生きていけるのはかすかであっても私の明日があるという思いです。そのことを案内してくれる人が一人でもいたら救われます。また明日会おうね,という友達の一言で自分の明日が今日につながっていると信じることができます。いじめが明日を奪ったことが自殺の原因であり,その明日を取り戻してやる案内をしなかったことが悔いとして,学ぶべきことです。

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(2024年03月17日:No.1251)