家庭の窓
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人という字は支え合っている形と言われます。よく見ると右側からの支えの方が辛そうです。それはともかく,人はお互いに支え合って生きてきました。その形がやがて失われていくのではないかと心配です。どういう根拠があるのかと自問してみると,小さな手がかりに出会います。
片隅に住まう自分にとって最も身近な社会である地域,そこはまさに触れ合いという支え合いの世界ですが,消えているという実感があります。様々な縁によって支え合っていた人のつながり,集団・組織がその形を維持できなくなって,解散という消滅の連鎖に陥っています。
かつての地域には,子どもの近所の遊び集団から,青年団,婦人会,同窓生の会,老人会やPTAなどがあって,支え合いを保っていました。地域の集まりはすっかり姿を消してしまいました。教育支援という目標を持つPTAも,任意加入という旗印を引っ張り出してきて,支え合いを拒否する解散に向かっています。居住地のまとまりである自治会組織も,日頃の支え合いを不要とする生活様式に浸って,加入拒否による胡散霧消の傾向が進んでいます。
その他の共通の助け合い目的を掲げている団体も,役職を引き受ける人がいないという現実に病んで,解散処理を選ばざるを得ないという状況です。福祉関係の組織であると,支援の不通状況が発生することになります。高齢化と担い手不足という課題の指摘があちこちで聞かれます。
支え合いという状況では,支える人と支えられる人という関係が基本ですが,その立場は問題が多様であることから交代可能です。支えたり支えられたりということです。ところが,そのお互い様関係がなくなって,一方的な関係の意識が強くなってきて,支える人にはなりたくないという選択がされてきました。人の世話をすることは専門的な役割である,職業であるという認識です。素人にはできないという思いが強くなっています。
支え合いが,ちゃんと責任を持って完全に成し遂げられないといけないといった硬直した認識になりすぎています。多少の不具合や滞りがあっても,取りあえずの間に合わせであっても,手を貸してもらえれば助かるということでいいのです。1でなければ0であるという考え方ではなく,0.3などの中途半端でいいという場合がたくさんあります。アナログな思考が生きる上では必要です。
ささやかな行きがかりのお陰で取り込まれているつながりの中で,自分にできることで社会活動の支えができていることは,生きている喜びにつながっていると実感しています。一人一人のできる支えは小さくても,集まりになれば,それなりの有効な支え合いが可能になります。後継者が現れないという状況は身近ですが,その先を選ぶのは私ではないことは確かです。
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