家庭の窓
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アメリカでの水谷氏の行状を本人が出版するという状況や,東京都でのある団体による選挙妨害があったという状況に対して,マスコミで表現の自由という言葉が飛び交っています。その主な論点は何を言ってもいいのか,その言い方は勝手でいいのかということです。際限のない自由はあるべきではないということが大方の結論のようです。
ここでは,表現という行為について,整理をしておきます。
まず,私には,表現をするか,しないかを決める自由があります。
次に,何を表現するかを選ぶ自由がありますが,私自身に関することは選べますが,私以外の他者に関することは選ぶ自由は私にはありません。それは他者が表現を決める自由を持っているからです。
さらには,表現をどういう形で実施するかを選ぶ自由があります。ただ,その形は他者の権利を侵害するものにならないように配慮すべきです。無理矢理押しつけるという状況は理不尽となります。
一方で,表現という営みは共同行為であるということが原則です。伝えたことが伝わったというときに成立します。伝えたいことを表現して,それを受け入れてくれた人が理解し共感してくれたとき,伝わります。ただそこで,新たな交換要件の多様化が起きてきます。表現を受け止めるかどうか,それを受け入れるかどうかは,聞く人の自由に委ねられます。さらには,受け入れる際に正しく受け入れることができているかという問題も惹起して来ます。
伝え合う関係が直接的である場合は,それぞれの思惑が表現の自由の結果を変化させます。ここでは,間接的である場合について,気がかりなことを考えてみます。互いが,時と場所を大きく隔てている表現の状況もあります。偶然の出会いで表現が伝わっていきます。
情けは人のためならず,という表現があります。発信者は曽我物語だと言われていますが,その表現を「人に情けを掛けて助けてやることは,結局はその人のためにならない」と受け止めている人がいます。伝えた表現は伝わってはいるのですが,その意味は逆転していて,表現は成立していないことになります。真意は,「人の情けをかけるのは,その人のためになるばかりではなく,巡り巡って自分に返ってくる。親切にしよう」というものです。人がどうであるというのではなく,私自身のことを表現しているのです。
秋深き隣は何をする人ぞ,という表現があります。これは芭蕉が旅の宿で詠んだ俳句という設定になっています。この表現を「隣の人のことを知らない」という人の関係の薄さを咎める言葉として使われることがあります。この俳句の意味は現代の近隣関係の疎遠さとは全く逆で,隣の人は何をして旅を楽しんでいるのかと気になって仕方がないということなのです。
この二つの表現が間違って伝わっているとき,当人はその間違いに気付いていません。受け止め方はその人の自由であるとしても,伝わったと思い込みが生じては表現としての意味がありません。この擦れ違いを避けるには,表現をする人は他者ではなく自分のことを述べていると想定をすることです。情けは私自身のため,隣を気にするのは私,その表現者の立場の理解が表現の伝わり方の作法です。
表現の自由とは,受け取る方には受け取るかどうかの自由はありますが,その理解に対する自由は誤解を生む可能性を孕んでいることを用心しておくべきです。
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