家庭の窓
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「寄り添うことはできても,できるだけ譲るのは,決断と勇気が伴います」(白鳥宏明)という文章が目にとまりました。2014年6日7日の「致知一日一言」で届いた今日の一言です。確かに気持ちの上で寄り添うことまではできますが,あくまでも自分とは一線を引いています。少しでも共に担いでみようとするには,自分に向けた決断と自分の内から湧き上げる勇気が伴わなければなりません。この分析は福祉の世界において「我が事」として受け止めようという目標の設定にもつながっています。
障がい者への寄り添いを推進する社会の要請は,「合理的配慮」を義務化するという取り決めを打ち出してきました。社会という他者が合理的配慮をすべきであると義務化する決定を押しつけてくるので,人は受け身に立たされることになります。ただし,前号で触れたように,もしも障がい者の身近にいる人であれば,他者に言われるまでもなく自らに課す決断と勇気をすり抜けて進んで配慮を能動的に実践しているはずです。
赤い羽根共同募金運動というよく知られた社会的要請活動があります。この運動に対して,二つの対応が現れます。我が事とではないので無視してすり抜けていく人たち,一方でできることをしようと自発的に応じる人たちに分かれます。どこかにいるはずの困っている人に何か手助けできることをしたいという気持ちから,募金活動が始まりました。その活動に賛同する人が次々に現れて,やがて全国的な運動にまでなってきました。賛同しない人は,強制ではないことを言い立てますが,自分がわざわざ決断するものではないと無視しようとしているだけでしょう。
他者と自分を同時に幸せにできる人がいると,世の中はもっと豊かになると考える人もいるようです。袖振り合うも他生の縁といわれてきましたが,縁というつながりを認識できる人であれば,幾分かを我が事として受け入れる余裕を持っています。縁は異なもの味なもの,ときちんと自分の舌で味わうことができるものなのです。人は世間のつながりを持って生きており濃淡のある絆で結び合わされていますが,その絆はそれぞれが半分の糸を互いに向けて伸ばし,互いに受け止めているのです。
寄り添うという表現によって,どのような状況を想定できるのでしょう。人には会話という行為と同行という行為があります。別の言い方をすれば,言うこととすることという行為です。会話によって共感するという寄り添いと,勇気と決断を経て行動によって共動するという寄り添いがあります。共動には時間や物質やエネルギーなどの有形無形の提供を伴います。そのことを受け入れる勇気が求められることになります。そのことに対してどのような代償・見返りが期待できるのか,といった打算も入るかもしれません。ただ,寄り添うという言葉には,具体的な対価の認識はふさわしくないでしょう。
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