《有難い 程をわきまえ 和やかに》

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 人は環境の中で生きて,お互いに関わり合いながら暮らしています。その際の振る舞いのあり方には,一定の縛りが存在します。していいこととしてはいけないことがあります。気候について,暑い季節と寒い季節では,それなりの対応をしなければ生きづらくなります。しかし,暑くもなければ寒くもない季節は,普通の季節として過ごしやすいと認識しています。暑さ寒さの間が暮らしの場になります。人は両極端を感じ取り言葉で一線を設定して,生きているのです。
 人の関係しあう環境には,良いことと悪いことがあります。良くも悪くもないことが,普通の振る舞いとして許容されています。良い振る舞いと悪い振る舞い,それぞれの一線が想定されていて,良い振る舞いは普段はしなくてもできるだけした方が良いとされ,悪い振る舞いはしてはいけないと禁止されます。普通の振る舞いにはある程度の幅があります。それが自由度になり,人が選択することになります。例えば,店舗の営業時間は店舗が決めて,利用者はどの時間に訪れるかは自由ですが,営業時間内に限るという約束があります。ただ,災害時には営業時間外に利用できる特別に良いことをしたり,利用者は混乱に乗じて略奪はしないといった節度を守ることが期待されています。
 東京都の知事選挙の折に,ポスターの貼付をめぐって混乱が起こりました。表現の自由という理由で引き起こされた振る舞いが,従来の想定を超えてしまいました。してはいけないと明記されてはいない振る舞いなので,しても構わないという考え方です。しかし,ポスターの貼付という振る舞いには,共通に了解されている普通の状況がありました。その範囲を超えることはしてはいけないのです。
 生活にはさまざまな局面があり,それぞれに普通があります。集団やシステム,活動形態にはそこだけの普通があって,機能しています。ある部分での逸脱は他のシステムにも不都合を起こします。例えばお国柄というシステムの違いで,普通が違います。そのため,郷に入っては郷に従えという対応の修正が推奨されていました。ところが,最近は狭い郷といった範囲設定が消えてしまい,個人の世界での普通を地球規模で適応させていく風潮が浸透してきました。多様性の尊重という流れの一面です。何でもありという状況が許されると思い込まれてしまい,普通が衝突を起こしています。
 この普通からのはみ出しに対して,かつてはある種の制動が表明されていました。「大概にしなさい」「いい加減にしなさい」「程ほどにしなさい」といったはみ出しの制止です。物事には程があり加減があるのです。アクセルとブレーキの踏み間違いという事故原因がありますが,自由というアクセルは程良くというブレーキが効いていてこそ意味があるのです。

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(2024年07月14日:No.1268)