家庭の窓
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社会的な了解としてのスローガンになる言葉は方向を持たなければなりません。例えば日常の行動規範として,悪を抑制し離れ限りなく善に向かうことを推奨するという方向が価値観になりました。ところが,善悪とは言葉として2項対立であることからどちらかに分別する簡易な意識が付き添うようになりました。悪でなければ善,善でなければ悪ということです。
ところで,世間の分類ではどちらでもないという状況が存在します。背丈の高い低いはどちらかだけに分けることはしません。中背という部分が大部分になります。そのことと重ね合わせると,先の善悪においても悪でもなければ善でもない,普通である人がほとんどと考えることもできます。善悪という目盛りではなく方向を示すことができるベクトルと考えた方が現実的です。誰もがいつも悪に背を向けて近づかないように気をつけながら,必要なときに善を行っているのです。
四六時中善だけをしているのは窮屈すぎるし無理であり,それより誰もがしている善は善とは言えず普通のことに格下げになります。めったにしないからこそ善として意識できるのです。悪はしてはいけないので,法律や戒律という形で具体的に提示し禁止すべく罰が科されています。一方で,善はできるだけして欲しいことなので表彰やお礼などでその都度善であることを明示していますが,啓発勧奨されても強制はされていません。人は普通であることを通常状態として生きています。してはいけないことはしませんが,すべきことも無理にはしない。すべき場合に限定しています。しなくてもいいのです。
話を少し外してみます。聞こえてくる普段の言葉遣いに気になることがあります。例えば,食べ物を食べての感想で,「美味しすぎる」,「超美味しい」といった言い方です。普通に「美味しい」でいいのではと思います。美味しいで物足りないなら,味わいの深みなどを表す他の言葉もあります。まろやか,風味が豊か,ほっぺが落ちるといった言葉で,より具体的に美味しさを表す方が望ましいでしょう。過ぎるという言い方ではあまりに単純すぎて,相手に失礼でしょう。食べ物の良し悪しを美味しいか不味いかの物差しでしか判断できない単純さを露呈します。
物事を一つの物差しだけで見るのではなく,多様に見る,見ることができることが大事です。物事の実状は多様な様相を持っているから,普通という表現で総括しています。例えば,人はほとんど普通の人です。その中で,背の高い人や低い人がいますが,それ以外は普通の人です。それだけではなく,太っている人もいれば痩せている人もいますが,それ以外は普通の人です。お年寄りもいれば子どももいますが,それ以外は普通の人です。ある目安で測れば該当者がいる一方で,どちらでもない人も出てくるのです。普通の人がいて,その普通の人が様々な面でそれぞれに特徴をおびているという多様性を外すことはできません。
ある価値に沿った長所と短所という特徴化をすることもあります。何が長所か短所かは人によって異なっています。様々な長所が協力し,それぞれの短所が補填されると,全体として普通の協力体制が可能になることが期待されます。その先には多様性のあるそれぞれを包摂する共生社会があるという構図になっています。普通であることを認め合わないと,分離が進んで結合は遠のくだけです。
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