家庭の窓
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人は自分の時間を持っています。社会的な約束事はともかく,一日をどう過ごすか何となく考えているものです。何もすることがないという暇で退屈な境遇に追い込まれたら,辛いだろうなと思います。それは自分を生かすという営みから隔離されることだからです。自分には何もすることがない,その思いは生きててもしようがないという扉のノブに手をかけるようなものです。
何もすることがないということはあり得ません。その点で女性は家事を取り仕切るという用件をほぼ独占しています。男がしないからであって,好き好んでしているわけではないという反論は当然でしょう。その分担の実情については,個々で選択すればいいこととだけ言っておきましょう。とにかく,毎日の生活を営むことは休みなしであり,だからこそすることがあるのです。その点,勤めに縛られている男は,勤め以外にすることがないという状況が背中合わせになっていることを忘れがちです。退職後のどうしようもない虚しさは必然的帰結です。
何もすることがないというのは,する気がないのです。しようと思えば,することは山ほど転がっています。ところが,そう言うと,しようと思えばあるかもしれないが,それが意味のあることであるかどうかが問題だ,何をしてもいいというわけではないと反論がなされます。意味なんていうものはもともとあるものではなくて,勝手に付け加えればいいのです。
暇なら家の前の道の草取りでもしたら? それは自分がすることではなくて行政がすることだ! そんなことをのたまわっているから何も始まりません。草を取ってきれいになったな。そう思えたら立派な意味があります。考える,創造するというのは自分で意味を見つけることです。人に見つけてもらおうと無精をしている限り,何かをすることの意味は決して見つからないでしょう。
ところで,今日一日何をしたのかな? 振り返ったとき,何もしていないと思うことがあります。何ともしれないことでウロウロして,昨日と状況が全く同じままであることもあります。なにかの用件がいきなり飛び込んできて,その処理に忙殺された一日というのもあります。しかし,たとえ自分に関わる意味が認められなくても,周りにとってはなにがしかの意味が持ち込まれたはずです。このまわりの世界に意味を見つけようとすることが,実のところ大事なことなのです。
街の誰とも知らない人の雑踏の中で孤独を味わう人がいます。周りと自分が無縁であると考えるからです。前から歩いてくる人にそれとなく道を譲って歩いていく気配り,それがあれば決して自分が孤独であり,無縁であるとは思わないはずです。縁とはもらう場合もありますが,基本的にはこちらから結ぶものです。孤独になる人は縁を待っているのです。持ちかけていけば,決して孤独にはなりません。
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