《世の中は 女と男 二人連れ》

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 戦後女性と靴下が強くなったという慨嘆が聞かれたのは,ずっと昔のことでした。それなのに,男女共同参画社会というキーワードが踊り始めたのは,ごく最近のことです。女性の力の台頭を感じていながら,ただ単に強くなったという印象でしか受け止めていなかった男社会があります。一方で,十分に力を持っていると自覚し始めた女性たちは,その力の発揮場所が限定されていることを矛盾と受け止めるようになってきました。
 従来の社会も,男女共同社会と言えるものです。つまり,男女が共同して社会を営んできました。しかしながら,共同のスタイルとして一般的な分業化を選ぶ際に,性別分業を想定してきました。いわゆる性による役割分担です。旧い社会では分業機能が未発達であるために,家庭のスタイルを延長した程度の分業で事足りていたのです。家庭は父と母という性役割を基本としやすい小社会です。家庭生活が主,社会生活は従の相対関係がありました。
 近代社会では,家庭は縮小し,社会が主たる生活の場所に様変わりしました。母系社会が置いてきぼりをくったのです。従来型の性役割は時代遅れになって,足手まといになってきました。女性の力の台頭とは,社会的な力の台頭です。ところが,男は外女は内という社会通念は,男女を問わずに,未だ残存しており,女性の社会的な力の発揮に水を浴びせる仕儀が現れています。
 新しい時代の男女共同社会になるためには,固定化した概念に修正を施さなければなりません。その切り口が「参画」なのです。社会的な能力の発揮において,性差という尺度は意味がないということ,したがっていかなる社会的な場所においても男女を問わないということを確認しようとしているのです。その上で獲得すべき重要課題は,正当な能力の評価です。「女だから能力がない」という門前払い的な評価の払拭であり,同時に「女だからこそ発揮できる能力」という旧い期待の打破となります。
 いま,参画を進めようとしている主役は女性たちです。ある意味で女性をそこまで追い詰めた責任は男性にあります。男性は女性を守るものという概念が時代にそぐわなくなっています。社会の荒波から遠ざけてやろうという思いやりが,女性には大きなお世話なのです。いっしょに荒波をくぐろうという申し入れを気持ちよく受け入れるときが来たようです。おそらくストレスが女性にも及び平均寿命が短縮されるでしょうし,男性は気苦労が減る分寿命が延びることでしょう。平均寿命が肩を並べられる日が早く来ることを願うばかりです。甘いでしょうか?
 世界で女はお前一人,そんな連れ合いを持っている男性は,おそらく連れ合い以外の女性を女性とは思っていないはずですが,どうなんでしょう? 話が逸れてしまいましたね。

(2002年10月27日号:No.135)