《揶揄なじり いたぶりけなし 情けなし》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 中坊公平という弁護士さんがおられます。森永ヒ素ミルク訴訟の弁護団長をされた方です。教育テレビでそのときの話をされているのを,たまたま見ました。タケオ君という被害者の母親の話です。
 「タケオは生涯の中で,たった三つの言葉しか話しませんでした。おかあ,まんま,あほ〜です。おかあとまんまは,この子が生きていくのに必要だからと私が必死で教えました。でも,あほ〜は教えていません。タケオにこの言葉を教えたのは世間です。それを教えた世間が憎い。」
 障害のある子に「あほ〜」という言葉を繰り返し浴びせてきた世間の心ない仕打ち,それを守りきれなかった親の無力感と悔しさ,話を聞いていてやりきれない思いをしました。話している中坊さんは目にうっすらと涙を浮かべていました。
 「あほ〜」。たった一つの言葉です。元気な子なら,笑ってやり過ごせることでしょう。でも,弱い者にはたとえ小さな針の言葉であっても,痛みは深いところに刺さります。まして寄って集って投げつけられたら,生きる道に針のムシロを置くようなものです。自覚のない揶揄の言葉は暴力になります。
 思いやりということを考えさせられます。思いやりと言えば,何らかの優しさを人に向けて提供することと思っています。それだけではありません。人に対して嫌みなことをしないことが大事なのです。格別に思いやりというよいことをしなくてもいいのです。ただ,わるいことさえしてくれなければ,それが最低限の思いやりになります。
 面白がって人を揶揄する,そのときにこの最低限の思いやりが消え失せます。自分の気晴らしのために,人をなじり,いたぶり,けなし,悪口を浴びせるような心根には,思いやりのかけらもないと思った方がいいでしょう。世間の一人として生きていくときに,最も大切なことは,このことを自覚することです。
 イヤならイヤと言えばいいのに,そんなに痛めつける積もりはなかったのに,その自覚の無さが罪になります。強い人は弱い人の立場を経験したことがないから,痛みを感じる度合いが測れません。それくらいのことでという,その自分勝手な判断しかできない不用意さが,知らないうちに加害者側に滑り込ませていくのです。
 誰もがギリギリのところで精一杯生きています。何とか暮らしを維持しているのです。人は見かけによらないのです。大きな荷物を背負いながらも,健気に生きようとしているのは,自分だけではありません。自分が幾ばくかの悩みを他人に隠しているとしたら,それは誰しも同じだと思っていればいいのです。その上で人の痛みの部分は黙って見守っておく,できるならちょっぴり庇ってあげる,それが真っ当な人情というものでしょう。まわりの人を見守らずに,見張っていませんか?

(2002年11月24日号:No.139)