《つつがなく 欲も抑えて 年終える》

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 連れ合いが何か違うんではないかとぼやいています。外国の女性に貢ぐために横領をした男性の量刑が懲役14年,9年間女性を監禁した男の量刑が11年なのに,ちょっとぶつかったと喧嘩をして結婚間際の男性を殴り殺した男たちの量刑が5年と6年ではおかしいというのです。
 人の命を理不尽に奪った悪行が,額は多いとはいえたかが金を横領した悪さの半分以下でしかないのです。法体系として理に適っているのかもしれませんが,どうにも計算が合わないというのが庶民感覚でしょう。人の命も軽くなったものです。
 価値というのはかなりの程度相対的なものです。高い絵画も無関心な者には,価値は感じられません。絵画が資産的な価値を産み出すのは,欲しがる人がいるという理由からです。誰も見向きもしないものは,何の価値も持ち合わせません。
 しかしながら,人の存在価値は相対的ではありません。たとえ見ず知らずの人で何のつながりのない人でも,命を粗末にすることは許されないことです。それが軽くなってきたという印象は,とても怖いことです。傷害致死という経緯は加害者に命を奪うつもりはなかったということで量刑が割引されているのですが,命を奪うかもしれないと予測できるのが人の了見であるでしょう。はずみという状況は分からないでもありませんが,喧嘩のように途中で制止する機会がある場合には納得できないものが残ります。
 庶民感覚は「目には目を,歯には歯を」という同程度の刑罰観に近いでしょう。この言葉は刑罰とか仕返しというより,人の目を奪った者は自分の目を失うことで償うという意味です。同じ苦しみを味わうことで許されるということです。近代の法は刑罰を更生という目標に沿って組み上げているので,感情論だけで結論を出すことはできません。
 法というのは本来被害者の権利や思いを守るために機能すべきものです。それが加害者の立ち直りにも気配りをするようになってきたために,話がこんがらがってきます。個人の思いと社会的な思惑とがせめぎ合うようになります。何が正義かという問題は一筋縄には判断できないもののようです。
 ニュースを見ていると,どうしてこんなことをするのだろうと思うことがあります。人と人が諍いを起こすことがないように考えるのが,人に与えられた考える力のはずです。感情や勘定が混ざると程良いところで立ち止まる意志が働いて欲しいと願います。そうすれば我に帰って,諍いもなくなるはずです。心穏やかな新年を迎えたいですね。
 皆様もどうぞよいお年を迎えてください。未年も徒然窓をよろしく・・・。

(2002年12月29日号:No.144)