《自己主張 八分に抑え 波静か》

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 車で出かけると右折や左折をします。横断する人に気配りをするときです。歩行者優先で待機しますが,ダラダラと歩かれるとちょっぴりイライラしてきます。信号の点滅が始まると,早くと思います。歩いている身になると,横断しているのに頭を突っ込んでくる車にイライラします。自分勝手ですが,人とはそういうものです。
 他者は邪魔になるものです。自分の進路を遮られるのは,権利の侵害です。理屈ではなくて,感情です。人の争い事は権利の衝突です。邪魔者は消せ,という過激な結末になるのは,権利の主張に正当性があると信じているからです。実は,権利の正当性は100%であっては困るというのが社会ルールです。感情的になると,どうしても100%の主張になります。
 何事にも絶対はない,それは100%はあり得ないと読み替えることができます。交差点で進路が衝突するとき,弱者である歩行者を優先させるには,車の権利を割り引きます。直進車の優先も,右折車の権利を割り引いて待機を迫ります。進路妨害になる方を割り引きます。
 腹八分が健康の元です。食べる権利を満たすために腹一杯食べていると,健康を害します。目一杯は人にはありがたくないことです。欲はほどほどにしておいた方がよいのです。権利の行使も八分がいいようです。二分を控えることで衝突が回避できるからであり,同時に皆が仲良く暮らしていけます。
 権利八分は気持ちの余裕をもたらします。お先にどうぞ,二分ならぬ時間の二分間を相手に与えるだけでいいのです。これくらいの我慢は普通ならできるでしょう。言い方を変えると,二分までなら譲ってもいいと思うのが庶民感覚ですが,それを弁えなくなってきた世情が気になります。
 かつて村八分というシカト制裁がありました。助け合う暮らしでは,火事・水害・病気・旅立ち・普請・誕生・成人・結婚・葬式・法事の10件が共同で営まれていました。その中で火事と葬式を除いた残り8件のつきあいを断つのが村八分です。シカトでさえ二分は残しておく余裕があったのです。二つぐらいは可哀想だから付き合ってあげようという許しができていたのです。これも制裁に対する権利八分と考えることができます。
 ところで,泥棒にも三分の理という言葉があります。泥棒の権利を考えると三分の正当性があるということです。この三分というのがたいへん微妙な数字なのです。二分までなら許せるし譲ってもいいという人も,泥棒が三分を主張すると許せなくて拒否します。泥棒として訴えることになるのです。盗むという犯罪に類別されるわけです。
 腹八分に医者要らず,腹六分で老いを忘れる。なぞらえれば,権利八分で競争要らず,権利六分で争い忘れる,ということになるでしょうか? もっとも四分に付け込まれて盗まれるのはごめんですが!

(2003年01月19日号:No.147)