《泥跳ねも 掛けて掛けられ お互いに》

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 空模様がくるくる変わります。大気の動きが短い周期で訪ねてくる季節柄です。雨の道を車で走ると,フロントが泥汚れにまみれます。特に小降りの雨の場合は道路を濡らすだけで,車を洗い流す雨にはならないのでやっかいです。走行中にワイパーを動かしても,泥汚れをぬりつける羽目になります。
 汚れると水に流してきれいにせざるを得ません。ところが,きれいにした車がすぐにやってくる次の雨の中に入らなければなりません。洗車すると雨が降るというジンクスを感じます。おそらく,子どもが何か手伝いをすると「珍しいね,雨が降るよ」と言ってしまうことと同じでしょう。
 せっかくきれいにしたのに,それがアッと言う間もなく駄目にされるのは悔しいものです。種を蒔いた後から,カラスにほじられるようなものです。でも,それがお天気のせいであれば,文句の言いようがなく,泣き寝入りをさせられます。仕方ないと苦笑いしかできません。
 ところが,これが人災となると簡単には諦めません。責任を追及することになります。雨の道路で泥まみれになるのは,舗装された道であれば,前の車による泥跳ねが原因です。実のところ,雨は直接の汚れはもたらしません。道路に泥がある,それを跳ね上げる前の車が直接の要因です。自分の車だけであれば,それほど汚れることはないはずです。そうであるなら,道路管理者,前車にこそ責任があると考えることもできるはずです。
 でも,よほど自意識過剰の方でない限り,そうは考えません。社会生活では多少の迷惑の掛け合いは許されると納得しているからです。お互い様なのです。自分の車も後続車に泥跳ねを浴びせているのです。迷惑を掛けられると同時に,同じ迷惑を掛けているので,相殺されるというわけです。
 車が汚れるのを避けるためには,車庫に入れて外に出ないことです。そうすればきれいなままで,手間もかかりません。がっかりすることもありません。それでは車の用を足しません。人が動くために,汚れないように車があります。車は汚れてくれているのです。汚れることを厭う車は無用です。ピカピカに磨き上げた車,それは大事にされている幸せな車でしょうか?
 人の世は汗と芥にまみれるものです。それを自分だけが被る汚れと思えば苦になりますが,みんな同じです。天災と思えば気が楽でしょう。人の世のマイナスは公平に分配されています。そう信じていれば,心穏やかになれることでしょう。もちろん,幸せも公平に・・・?

(2003年02月02日号:No.149)