《目に見える イメージないと 片づかず》

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 あるところに車で行こうとするとき,あの辺りと見当をつけて出かけることがあります。訪ねるところが野中の一軒家であるとか,目立つビルであればいいのですが,混在した家並みに紛れていると,真っ直ぐに辿り着けません。道路の曲がり方を一つ間違えただけで往生します。
 たった一つのすれ違いなのですが,それが一つ間違えたと分かるのは後になってからです。探しているときは,一つか二つか,それも手前か通り過ぎか,どう間違えたのかが把握できないので,修正のしようがありません。だから,迷います。
 暮らしの中では,およそこうだろうという見込みで対応することがあります。慣れてくると横着になります。ところが最後の詰めで小さな間違いをしてしまいます。「よく確かめなさい」という注意は,そういった場合に言われます。物事のはじめは大まかでいいのですが,終わりは細心の作業をする心構えが必要なのです。彫刻では最初は荒削りにノミを入れます。絵画では大まかなデッサンから描きはじめます。
 画竜点睛という故事があります。南朝の梁国にいた張という画の名人が安楽寺で竜を画きました。天に昇ろうとする二匹の竜です。ところが,睛(ひとみ)が入れられていません。点睛をせがまれて一匹の竜に睛を描き入れると,竜は昇天していきました。最後の仕上げをすることを画竜点睛と言うようになりました。たった一つの小さな点,それが最後の仕上げになります。
 百里の道も一歩からです。そして九十九里をもって半分と思えと言われています。もう少しで終わると思えばつい気を抜きますが,詰めは最も気を遣うべきところなのです。終わりよければすべてよしなのです。ところが,仕事をするときに,ほとんど終わっているという状態で残してしまうことがあります。そういう癖がつくと,どれも仕上げられないままに片づかなくなります。ほんのちょっとした仕上げですが,それが億劫になるというのは,重たい作業であると感じているからでしょう。
 家が片づかないというのも,最後の詰めを欠いているからです。使いっぱなしで,仕舞うという詰めが甘くなっています。その辺に押し込んでおくといったいい加減さが,中途半端な状態をそこかしこに残していきます。そのうちにまとめて片づける積もりが,延び延びになります。けりをつけられない癖は,局面が変わっても引き継がれます。
 何事かをしようと思うことは大まかでいいでしょう。でも,それを実現しようとすると細部にまできちんとけりをつけていかなければなりません。一つの落ちがあっても,成就しないからです。具体的なイメージを持たなければ,細部は詰められません。そこまで目配りのできる人が仕事のできる人です。目配りとは,目で見ることです。何を見ればいいのでしょう。頭に描いた具体的なイメージが見えるのです。

(2003年03月02日号:No.153)