家庭の窓
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春の風が心地よい日のことです。田圃一枚隔てたお向かいの庭の植え込みから,ホケキョという鳴き声が聞こえてきます。しばらくその声に耳を傾けていると,アレッと思わされました。ホとか,ケッとか,口ごもったような声とか・・・。ホーホケキョという聞き慣れた鳴き声が聞こえないのです。まだ上手に歌えない修行中のウグイスのようです。教えてくれる先輩ウグイスがいればいいのだがと少し心配です。
人間の赤ちゃんは泣き声をあげますが,泣き方は誰に教わるのでもなく本能的です。同じように,ウグイスも自然に鳴けるようになるのでしょう。ところで,ウグイスの鳴き比べという競い合いがあります。上手に鳴くウグイスに育てるには,上手に鳴く先輩の声を聞かせるそうです。鳴き声のコブシには受け継がれていく面もあるようです。
人間は泣きますが,鳴きません。鳥のさえずりは,人にとっては歌うことに対応するようです。歌うのは教わらなくてもいいというわけにはいきません。自然に歌えるようになったと思っていても,実は歌っている人を真似して学んでいるのです。親が歌っていると,子どもは何の意識をすることもなくそれを耳にして,音感を育てていきます。ごく自然にということです。
誰の世話にもなっていない,今の自分は自分の力で獲得したもの,そういう思いを程度の差はあれ,誰しも抱いているでしょう。わざわざしてもらった世話を受けた覚えはないかもしれません。しかし,いつの間にかたくさんのお陰を受け取っているはずです。見えていないだけです。見ようとしていないからと言った方が正しいでしょう。
暮らしに必要なモノをお金と交換に手に入れています。そのモノを提供するたくさんの人が,どれほど心を込めて届けようとしているでしょう。いいモノを,美味しいモノを,喜んでもらえるモノを,それぞれの関わりの中で最善を尽くしてくれています。それだから,安心して買い物ができます。
もうけしか考えていないとか,手抜きをしようとしているとか,そんな風に考えていたら,買えなくなります。自分だけが誠実で,世間は不実であると思えば,暮らしは成り立ちません。安心して暮らせる,それはすでにお陰なのです。それを弁えていればこそ,自分の役割を誇りに思い,誠実に務めることができます。自分のお陰を持ち寄ることで,お陰を交換しあって,生きていることを再認識しておきましょう。
教養という言葉がありました。それは小難しい学問の素養というニュアンスがあるかもしれません。素養とは考える材料に過ぎません。人が生きている仕組みを納得することが教養です。だとすれば,見過ごしているお陰を見ようとすることは教養への入り口になると言えるでしょう。
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