《お茶一つ もてなすときの 気の配り》

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 コーヒーメーカーの豆を砕く音が室内に響き渡ります。やがてお湯が降り注ぎ湯気が上がり,香りが漂います。一日の始まりです。コーヒーカップに注ぐと容器の分が減りますので,白湯をつぎ足しておきます。繰り返すうちにどんどん薄められていきます。コーヒー通には考えられないことでしょうが,飲めばいいという味音痴にはそれで十分に楽しめます。
 ところが,人様にお出しするわけにはいかないという困ったことが起こります。味にうるさい方は別として,それなりにちゃんとしたものでないと失礼になります。何がちゃんとしたものかよく分かりませんが,コーヒーメーカーの目盛りに合わせておけばいいのだろうと思っています。きちんとしたものにするためには水一つから気をつかわなければならないのでしょうが,そこまではしていません。お金を頂くわけではないので,お許し頂いています。
 味にうるさくないと,いいこともあります。講演などで訪問した先では,お茶を出されます。いろんなお茶が出てきます。濃いかったり薄かったり,あつかったりぬるかったりします。好みにこだわる方なら,こんなお茶を出すなんてと思うことがあるでしょう。でも,こだわりがないと,そんなものとあっさり受け入れてしまって,失礼を咎める気にならなくて済みます。
 美味しいものでもてなさないのは非礼だというのは,招かれる方のおごりです。相手の場に入り込んだら相手の好みに合わせることが,訪ねる方の礼儀でしょう。普段のものではないと思われるもてなし方をされたら,かえって迷惑をかけたと感じて落ち着きません。迎えてくれる相手の気持ちを自分の尺度で量っていると,気が付かないうちに関係をぎくしゃくさせていきます。
 招く方は少し気配りし,招かれる方は余計な気配りは無用とありのままを素直に受ける,その呼吸が円滑なつきあいをするコツです。つきあいは気持ちの通い合いです。もののありようで量るようになったら,賄賂の性根と同じになります。いいモノをくださったからいい人だ,自分を大切に思う証拠だと自分の得になるつきあいに勘違いするからです。
 こちらが気配り無用だからといって,招く立場になると相手もそうだというわけにはいきません。気分を害されることのないようにおもてなしをします。こちらと同じであることを期待するのは,自分勝手な押しつけになるからです。相手がどうであれ,それは相手のこととして認めて,それなりのおつきあいをすればいいのです。
 自分と同じでない人のことを,話の種にしている場合があります。それもほどほどにしておかないと,世間が狭くなっていきます。同じである人は少ないのですから,同じである人だけとのつきあいを選んでいると,つきあいのできる相手がいなくなっていきます。つきあいにはいろんな局面があります。その一つ一つが全部同じである人などいないからです。違っている人とどう付き合っていけるか,それは同じでなくて構わないというゆとりによって可能になります。

(2003年03月23日号:No.156)