《公共を 咎める人に 逃げる人》

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 連れ合いから喫煙を止めるようにいわれています。何となく聞き流しています。体によくないことは分かっていますが,感じるような変調がないので高をくくっています。もちろん自覚できるような羽目に至ったら一巻の終わりなのですが,どうにも意志の弱さを露呈しています。
 人と居合わせる場所では禁煙がマナーになっています。灰皿が目に見える範囲から消えています。喫煙コーナーを設置してあげようという思いやりも,隅の方に追い詰められてきました。撤去という事態もまもなくのようです。吸わない方に対する発煙の暴力という意識が浸透しています。
 喫煙が自傷行為であり,他人を巻き添えにすることは許されません。臭いが嫌,部屋が燻るなどの嫌煙権が,至福のひとときを求める喫煙権を侵しています。しかし,権利の主張には許されないものがあり,個人的な喫煙権が封じられるのも致し方ないことです。空気を汚さないという環境権の方が上位の権利ということです。
 歩きタバコを規制する条例があちこちで制定されています。それなら止まって吸えばいいのかという屁理屈は通じません。ところで,喫煙が他人に迷惑を掛ける行為であるなら,自粛するのはマナーです。それを条例によって禁止することは,マナーの衰退ということです。マナーが行われないから,堪忍袋の緒が切れてしまったという事態になったのです。
 喫煙のマナーに限らず,公共はどこに行ったのかという声が聞かれます。昔風にいえば高級車である外車を運転なさっている方が,タバコの吸い殻を窓から道路にポイ捨てされます。拾ってあげて「落とされましたよ」とお届けしたくなります。もっとも中途半端に持ち物にこだわる方ほど,心の輝きは疎かになるのが世の常なのでしょう。
 塀の向こうは田圃ですが,あぜ道をイヌの散歩に通る方がいらっしゃいます。糞尿は垂れ流し状態です。殊勝にビニール袋を持参されている方も,ただポーズとして持参されている風です。もっとも,糞尿は自然に返るものですから,自然の摂理を悟った方に言わせれば,汚物扱いする感性の方が間違っているのかもしれません。とはいえ凡俗の身には程遠い悟りです。
 それくらいのことでカッカするなんて,という声が出そうです。小さなことを真剣に叱る人がいなくなりました。ちょっとだけならと見逃すようになっているために,ケジメが曖昧になりました。公共という場を寄って集ってないがしろにする世の中,自業自得と諦めましょう? 諦めずに気付いたあなたが何とかすべきだと言われそうです。でも,その人任せにしようとする気運が罷り通っているとすれば,やはり救いようはありません。・・・というぼやきの一席でした。

(2003年04月27日号:No.161)