家庭の窓
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情報社会と呼ばれているだけあって,情報を手に入れることはずいぶんと早く簡単になりました。情報の価格が数段と下落したとも言えます。コピーが当たり前になったということは,たいていの情報はただで入手できるということです。ネット上には膨大な情報が蓄積されています。検索機能もあり,知るためには重宝です。
情報処理システムが高速化したおかげで,一つの情報はあっという間に流布していきます。発信者の思いも及ばない所まで届いてしまいます。著作権なるものを守ろうとすると,困難な状況になりました。権利を無理矢理放棄させられていると考えざるを得ません。そのことを了承した上で情報を発信している人がたくさんいます。ホームページを開くことも,オリジナリティという権利はさておいて,表現したいという願いが勝っていることのようです。
ところで,講義では知恵という情報を切り売りします。学ぶ者は授業料という対価を購っています。売り物である講義情報を無駄に聞き流す人もいます。情報があふれた暮らしに慣れているために,情報への執着力が鈍っているようです。悪貨は良貨を駆逐するという言葉に準えれば,悪報は良報を駆逐するということになります。
情報公開という動きが定着しています。公開されている情報は素材です。そのままでは,食材を生で食べるようなものです。あるいは,人の手になる料理です。講義は情報の給食です。すべての人に対して,いつでも口に合うとは限りません。自分の口に合うように,自分の手で調理しなければなりません。そのプロセスが学びという営みになります。
情報は発信する人がいるだけではただの記号に過ぎません。受信する人が解ろうとする気持ちの調味料をまぶしてこそ,美味しい価値を現します。受信する側もまた表現者になっている必要があります。講演を聴いておもしろくないというのは,聞く側の表現力が発揮されていないからなのです。人の料理したものが口に合わないなら,提供された素材を調理し直せばいいのです。自分の話しかしない講演では,使える素材が少ないのは否めませんが・・・。
情報を公開するのは素材を豊かにすることでしかありません。情報を共有することで情報が生かされるのですが,そのためには受け取るだけではなくて,自分で考えるという蒸らしをしなければなりません。一人ひとりが情報を知恵に炊きあげることで,人の集団が情報を共有したということができるのです。
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