《4割が 分かり合えない 新鮮さ》

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 連れ合いが夕食の準備をしながら,歌を口ずさんでいます。ご機嫌がいいようです。その原因は知りません。ちょっとしたよいことがあれば,人は気持ちが和みます。どうしたのか問いかけようと思いましたが,止めました。決して上手くはない歌ですが,弾んでいる旋律を耳に受け取るだけにしておきました。
 あるがままを感じている,それだけで十分です。何があったのか理由を尋ねたら,それは別個の人格に分離してしまいます。連れ合いの楽しさをそのまま共に感じていればいいのです。沈んでいるときには,黙ってそばに寄り添っています。どうしたのか尋ねなくても,ふっと漏れてくるつぶやきが教えてくれます。そばにいればそのかすかな声が耳に入ってきます。
 一緒に暮らしているから,夫婦だから,親だから,お互いのことは分かり合える,分かり合えるはず,分かり合えねば,と思いこんでしまいます。喜びも悲しみも分かち合ってこその伴侶である,そんな宣言もされています。このような文科系の発想がジワジワと仲を締め上げていきます。理科系に馴染んできた感性は考えることを定量化しようとします。すべてを分かち合うことは不可能であると,最大に見積もっても6割方であろうといったように,その程度を常に意識します。
 共通化できる部分とできない部分を分けて考えると,無理をしなくて済みます。分かり合えない,分かち合えない,そんな部分が残るし残しておく方がいいのです。だからこそ,共同する意味があり,共に生きる価値が生まれます。お互いに異質なものを抱えているから,刺激しあえるし,惚れあえるのです。お互いの思いがすべて分かりあえていると思いこんだときから,新鮮みが薄れ飽きるという秋風が吹き始めます。満腹したらもう要らなくなるのです。
 夫婦は惚れ直していく繰り返しが必要です。それは新しい魅力を見つけていく営みです。ちょっとした仕草をかわいいと思ったり,急に妙なことを始めた驚きであったり,どんな小さなことでもいいのです。同時に惚れ直してもらう努力も忘れてなりません。大げさにいえば,人としての魅力を磨いていくことです。いつまでも好かれていたいなら,見かけのおめかしで誤魔化すのではなく,新鮮な心身でいることです。はじめての料理に挑戦する連れ合いの姿を見ていると,初々しく感じてしまうのはあながち老眼のせいばかりではないようです。

(2003年06月22日号:No.169)