《欲の皮 肥やして招く 閻魔王》

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 大局的なものの見方・考え方があります。大づかみに全体の流れをつかんで,個々の物事をすり合わせるという手法です。大同小異の尺度を持ち合わせていないと,窮屈になります。政治的な手腕と呼ばれるものも,その部類に属します。細かな収支上で利害が衝突する場合に,より大きな規模で損得を計ればバランスが取れるようになるものです。
 大局とは,1対1の関係を2対2や3対3の関係に連鎖させて広げると同時に,過去現在未来という時間幅を設定することでもあります。そうすることで,「今私が」という性急な要求を,「取りあえずあなたが」という待ちの余裕に変えてしまうことも可能になります。その上に,待つことには楽しみという余録が生まれます。
 人は突き詰めていけば,欲のかたまりです。自分が生きるという本能を持ち合わせています。生きるためには手段を選ばないという生き物は,悠久の時の流れという篩いに掛けられて,淘汰されてきました。欲望を最小限に抑える遺伝子を獲得した種のみが,群れをなして社会生活を営む資格を手にしたといえます。どう猛な肉食獣でさえ,必要な狩猟に抑えています。手当たり次第に襲いかかるようなことをしたら,補食種が絶滅して,結局は自らの滅亡を招いてしまいます。
 必要なもの以上の収奪をしているのは,人間だけです。絶滅種に引導を渡してきたのは,大局を見失った愚かな人間なのです。環境志向が今更ながら喧伝されているのは,英知の証明ではなく,単なる後悔です。人は記憶の力を持っていることで,かろうじて過ちを悔いるという資質を使えるようになりました。試行錯誤という道を歩んできたのが,歴史の足跡であることは明らかです。
 豊かさの中で,どれほど不要なもの,余分なものを取り込んでいることでしょう。残飯という無駄を豊かさの証と思い違いをして,大局的環境の炎症になっていることに気付いていません。気付いていながら,見ないふりをしている狡猾さを発揮しています。自分一人がセーブしたところでどうなるものでもない,そんな大局の前の卑小さを持ち出しています。自分の都合のいいように物事を脚色する卑怯さは,欲というもののしたたかさを示しています。
 「この世に客として生まれてきたと思え」,伊達政宗が言い残した言葉ですが,その意味さえ逆転されています。客として遠慮がちに生きるという本旨が,客としてわがままにしていいと曲解されているようです。豊かな社会は,大局的視野を持たない小さな人間を育てているのかもしれません。栄枯盛衰といううねりは,逃れようがないのでしょうか?

(2003年07月06日号:No.171)