《安全は 社会の体力 あってこそ》

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 身の回りの最近の変事として,変質者の出没があります。子どもたちは集団登下校をしています。下半身を露出したり,いかがわしい写真を見せたりする曲者が子どもたちの前に現れています。今のところ大事には至っていませんが,このような手合いはやがてエスカレートするので,要注意です。それにしてもまっとうな感性を失っている人間がうろついているのは,どういうことでしょう。
 普段は常人と変わらず,ある瞬間にフイッと常識回路が混戦するのでしょう。肉体のうねりを統御する理性が未成熟なままに放置されている傾向が見られます。それは人を育てることを放棄した現在の文化の特質でもあります。基本的な欲求を無制限に解放しようとする野放図さが,やがて行き着こうとしている社会の様が垣間見え,礼節や粋という形で封じ込めてきた欲望がむき出しのまま闊歩する醜さや淫らさを感じます。
 地域社会が安全であったのは地域の人がつながっていたからだという根本を喪失しています。安全はあるものではなくて作り出すものです。物作りを忌避する感性が蔓延する中で,目に見えない抽象的なものを作り出すこともしなくなってきました。安全もスーパーで買えるとでも思っているのでしょうか?
 豊かさを享受することしか考えていないから,自らの生活圏を貧弱なものに寂れさせていきます。人の住んでいない家が荒んでいくのと同じように,人の住んでいない地域は荒廃するばかりで,魑魅魍魎が跋扈する荒れ地域に変貌します。住むというのは寝るということとは違います。生活活動が密接に結びついているというネットワーク状態です。顔を合わせても挨拶一つしないでは,住んでいるとは言えないのです。
 顔見知りであり,あそこのうちに住んでいる人。そんな地縁がお互いに意識されているところでは,自ずから人の目が光っています。誰かが見ているという心の監視カメラを持ち合わせる地域では,抑制力が働き,小悪は完全に封じ込められるはずです。悪の行動は見られているということをもっとも嫌うからです。
 日暮れ前とはいえ日中に堂々と変質行為が行われるという事態は,地域の安全力が侮られるほど低下してきたことになります。体力が低下すると雑菌に負けてしまっていろんな症状が現れてくるのと同じです。その患部はもっとも敏感な,つまりもっとも弱い部分に初期症状を集中します。地域でいえば,子どもやお年寄りです。
 対処療法として患部を守る,つまり子どもを守るために見回りという手当が施されていますが,それは一時のことであり,体力の回復こそが必要です。地域の安全力とはどういうことか,本気で考えてトレーニングをはじめなければ,地域に持病が定着します。地域の運営的立場にある人がそこまで診察できていればいいのですが。

(2003年07月27日号:No.174)