家庭の窓
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義理で関わるという場合があります。義理チョコの義理です。若い人には,義理など無用という感覚があります。形については,形式的とか,虚礼という無価値的な評価を下され拒否され,ついには虚礼廃止です。義理が廃ればこの世の闇という歌詞がありましたが,どうなんでしょう。
研修会などに参加すると,聞いても仕方のない話を聞かされ辟易します。もう少し話を練り直して来いと言いたくなります。話すことに力一杯で,聞いてもらおうという気配りが薄いのです。自分の気持ちをただ口にしているだけで,聞き手の耳に届けようとしていません。誰が聞いてくれているのかということを考えていないからです。相手の関心を思慮して話を工夫しなければ,言葉は届かないのです。
何度かの経験から,そんなものということが分かってくると,後は義理で参加するということになります。主催者の顔を立てるために,つまらない時間つぶしをするわけです。お互い様ということです。来ていただいたことがあるから,お招きには義理で応じる,暮らしの場でもよくあることです。
表向きの暮らしは,わざわざ義理を果たすことで成り立っています。研修会なんかつまらない,時間の無駄だと本音をむき出しにして切り捨てれば,自己満足は得られます。どうしてこんな無駄なことをしているのでしょうか。誰もが無駄だと思っているなら,さっさと消えていくはずです。
考え違いをしないようにしなければなりません。義理なんて無駄,そう考えるのが浅はかなのです。人のすることに無駄はありません。無駄に見えてもきちんとしたわけがあります。それが見えない,見えなくなっている,見ようとしない,そのとき人は自分の傲慢さに吸い込まれていきます。人に無駄という尺度を持たせたのは悪魔のたくらみかもしれません。
聞いても仕方のない話,それを話し手のせいにする身勝手さがあります。聞き手が聞き取る努力をしているかということです。届かないから聞いてやらない,それを横着といいます。話はお互いが歩み寄ることで成り立つものです。話し手と聞き手は五分五分です。
したくなくても義理だからする,わざわざありがとうと感謝する,この無駄に見える好意があるからこそ人のぬくもりが伝わります。人はわがままなものです。そのわがままを抑え込む知恵が義理という注射なのです。ちょっぴり痛いけど,心の通い合いという薬剤が注入されます。もの,ことの無駄遣いが文化の元であることを忘れたら,文化的人にはなれません。文明人の心のなさは,無駄の効用を切り捨てるからです。
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