家庭の窓
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プチ整形という手術が流行っているようです。自分の顔の造作をリフォームして見せてくれるソフトが現れています。こんな顔になりたいという欲求がエスカレートしていきます。身体髪膚これを父母に受く,という漢文を習って育った世代には,理解を超えた事象です。
リンカーンは,40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持ちなさいと語ったそうです。それまでは,親の責任です。男女の結びつきのきっかけとして,美しさが大きな因子であることは,動物一般に認められることです。いい男,いい女,美男美女という言葉があるように,選択の目標の一つにはなりますが,それだけのことです。
人は化粧することが普通でした。それは化けることに過ぎません。見た目に限定されていました。それで充分だからです。見た目の美しさよりも,心に感じる本当の美しさを知っていたからです。優しい気持ちを人に向けることが大事であり,自分に向けてしまうとナルシズムに陥ることを知っていたからです。
整形して見た目の美しさを得たとして,それで何ができるのでしょう。自分を変えたつもりでしょうが,自分の遺伝子を偽る心根は不気味です。なにより自分に向けられた関心が,相手にどれほど振り向けられるでしょうか。何のための美しさか,美しさを考え違いしています。美しくなければ人間関係が結べないという恐怖があるのかもしれませんが,人を表面的にしか理解していない未熟さが,自分を表面的な存在に割り引いてしまっています。
自分の見た目を改変するという所業は,人間に対して傲慢でもあります。自分のすべてを素直に認められない人が,人を信頼できるはずもないからです。自分のここが気に入らない,そんな目で人も見てしまいます。誰しも気に入らない部分を抱えています。だからこそ可愛いという気持ちの高揚を人は獲得していき,それを絆として社会ができあがっているのです。
与えられたものを素直に受け容れる,そこからすべてが始まります。美しさの標準化,単純化が進んでいる背景には,人の寂しさがあります。例えば,ちやほやされたいという欲望があります。そのためには美しさが不可欠だと短絡していきます。しかし,ちやほやされることにどれほどの意味があるのでしょう。誰になんと思われようと,自分は自分が好き,連れあいにちやほやされていればいいではないでしょうか。
プチ整形の是非は,個人の勝手でしょう。外野席からとやかく言うことではありません。一億二千万人のうちの一部のことです。ただ,人の振り見て自分を振り返ってみる機会にしてみただけです。大きなお世話なのですが。
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