《責任は 言われたくない 言いたくない》

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 朝起きたら,「さあ,がんばろう」。それとも,「もう朝,嫌だな」。どちらが人生を得しているのでしょう。自分の時間を無駄に過ごしては損ですが,無駄だと決めつけているのは結局のところ自分です。意味を見つけるのは自分だからです。したがって,損しているのは自業自得な面があります。
 無駄かどうかの判定は,したいことをしているか,しなければならないことをしているかです。もちろん後者が無駄だと断定されます。言い換えると,自分が決めたことをやれればいいのですが,他人からとか責任として外から押しつけられてやらされるのは無駄に見えるということです。だから,責任がないという論理を編み出してなるべく逃れようとします。
 家庭を維持するにはいろんなことがあります。その分担をする責任がありますが,やれ仕事だ勉強だと誰もが責任逃れをします。一方で,仕事はしなければならないこと,勉強はしなければならないことという責任論を持ち出しています。仕事はしたくない,勉強は嫌だという気持ちもまた責任感に駆られてしていることから派生しています。のんきでいいのは飼い犬や飼い猫ぐらいと思いきや,閉じこめられておとなしくしていなければならないストレスがあるようです。
 夫婦であれば助け合いたいはずです。親子であれば労りたいはずです。仕事人であれば仕事をしたいはずです。学徒であれば楽しく勉強したいはずです。夫婦や親子という関係を軽く考えて疎かにしているから,無駄な時間を費やしているという心のカビが生えるのです。自分を大切にするという意思を持ち出すのが今風ですが,そこでは自分とは何者かという定義を明確にしておかねばなりません。何となく自分を曖昧にしているから,家庭でも勤め先でも自覚がない存在に落ちぶれます。
 責任という概念は情感のつながりがない間柄,それでも共同しようという間柄で成り立つものです。責任感でつながっている間柄は,しなければならない無味乾燥な間柄なのです。社会のルールとして絡みついてきますし,自分を縛るものと意識されてしまいます。
 自分は夫である,妻である,親である,子である,紳士である,淑女であるといった,なにがしかの自分意識を持てば喜びとともに自己実現できますし,結果的に付帯する責任は果たされていきます。責任感は二次的なものに格下げできます。だからこそ,人は自己実現という努力を惜しまないのです。
 勤務でも,自分は社長,課長,係といった自覚を持てば,やらされているという被害者意識は消失するはずです。仕事意識を持てといわれますが,それは自分は何者かという自己意識に他なりません。定年になると,その自己意識は剥奪されてしまい,自分は何者という確信が持てなくなり,暇を無駄に費やす苦渋の世界に放り込まれます。幾つかの自己意識を持っていないからです。勤務先の自己意識,家庭での自己意識,地域での自己意識,その場に応じたものを持っていれば,それだけ人生を豊かに過ごすことができます。言い換えれば,一人で何人分も生きられるということになります。

(2003年09月14日号:No.181)