《正論を 八分で止める 思いやり》

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 ものも言いようで角が立つ。あなたには言われたくない。そこまで言わなくても。何の恨みがあるんだろう。関係ないでしょ。余計なお世話。人の言葉に揺れ動くのは会話の常ですが,ちょっぴり苦い方に振らされることもあります。
 人は常にいろんなことの途中に立たされているものです。やりかけの仕事や,やらなければならないけど手つかずのもの,どうしようかと思案中のこと,長い期間でやろうとしていること,終わることのない旅路を歩んでいるようなものです。まだ終わらないのか,どうしてしないのかとあからさまに結果を求められると,自分のペースに介入されるようでいらついてしまいます。
 講演などで壇上に立つと,その語り口は指導者調に裏返ります。聴衆を激励するのではなく,どれほど無知で愚かな状態かを解き明かし,だからしっかりしろと叱咤する流れになります。おっしゃる通りです。正しいことです。立派なことです。ごもっともな託宣です。反論の余地は見あたりません。でもね・・・。
 ガンバレという励ましの言葉があります。精一杯がんばっているのに,これ以上ガンバレというのか? 口で言うだけならいくらでも言えるよね? あなたは私の何を知っていてそんな風に言うんだ。利いた風な口を利かないで欲しいね。現実は口で言うほど簡単じゃないんだから,いい加減にしてくれ。
 自分を守るためには言い訳をしなくてはなりません。こちらにはこちらの事情がありまして・・・。その辺のところを考慮して,少し歩み寄ってはいただけないでしょうか。その反論の余地を残しておく配慮が,言葉には含まれていなければなりません。優しい語り口とは,相手の事情を飲み込んでいるときに可能になります。
 人と人とが共同する社会では,お互いを生かすような結びつきが不可欠です。できていないなら,どうすればいいのかを一緒に考えることです。責任はちゃんと果たしなさい。その言葉は自分に発する言葉であり,人から言われるものではありません。人に言われたくないから,人は責任を果たそうとがんばれます。その人情の機微を温かく弁えていれば,言葉はすんなりと伝わっていきます。
 何となくすっきりとしない,もどかしい展開の話をしてきました。一言でいえば,建前に対する本音の反論です。公的な発言が冷たいのは,本音の入り込む余地を閉ざしているからです。そうそう。頷いて聞ける言葉は温かく耳に滑り込んでいきます。共感という気持ちは,本音につながっているのです。

(2003年10月26日号:No.187)