《気がつけば 花あるばかり 生かされて》

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 地域の公民館で開催された園芸教室に夫婦で出席してきました。参加すると帰りがけに苗か球根か,おみやげをもらえることになっており,一人一個なら二人分もらえるかもしれないという皮算用です。出席が多いときは一家に一個となりますので,おみやげの数は小さな賭けです。みみっちい欲です。
 草花の植え方,世話の仕方を教えてもらいました。ガーデニングは連れ合いのまねごとを遠くから見ている程度で,全く関心もないながら,聞いていると結構面白いことを知りました。当然のことですが,草花は健気に生きているということを弁えていなければ,扱えないようです。ただし,草花を楽しみたいと願っている人の思惑が切ない茶々を入れてしまうのが気になりました。
 こんな話がありました。パンジーの花が咲き終えたらすぐに摘み取る方がよいそうです。放置しておくと実ができて,花を咲かせなくなるのだそうです。摘み取れば,実ができなくなって,パンジーは種の保存のために新たな花を咲かせようとするということです。パンジーの生きようとする力を逆手に取っています。
 もちろんすべてが人の小さな身勝手というわけではありません。草花が生きる力をちゃんと支えてやるという所作がほとんどです。水を頭からぶっかけておけばいいという乱暴な扱いのいけないこと,日差しの強い弱い,当てる時間の幅,環境温度の影響など,適切な処方があり,それらが可愛がることと重なっています。
 簡単に花を愛でるという程度であれば,花の咲いている苗を購入してきて,花の散るまで水やりをするでしょう。花がなくなればあっさりと棄てられます。球根のできるものであれば,また来年も花を咲かせてくれますが,そのためには生き抜く手助けが必要です。自生しているのではないからです。生かしてあげようという願いが込められた話でしたが,あれこれがあってこんがらがってしまいました。当分庭いじりはできそうもないようです。
 野に咲く小さな草花,それは周りの植物と上手に折り合って健気に自生しています。季節ごとに身近にあれこれの花を飾ろうとすると,自然から拉致してこなければなりません。山であれば自生できるのに,友だちから切り離し独りぼっちにして,鉢という部屋に軟禁されてしまいます。本来の環境から引き離し,金で取引し,慣れない土地で生かすには,完全看護の体制を取ってやらなければなりません。花がなくなればあっさりと見捨てられるのでは,何のために生まれてきたのやら?
 他愛のない感傷に過ぎませんが,生きているということを感じ取ってやろうとすると,そこに導かれていきます。せめて,きれいだよ,そしてありがとうと感謝する気持ちは忘れないようにしたいものです。

(2003年11月09日号:No.189)