《頼られる 重みに耐えて 喜ばれ》

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 病気になったとき,頼りにするのがお医者さんです。ところで,このごろ医療過誤のニュースが飛び込んでくるようになりました。投薬のミスや手術器具の操作未熟さなどのほかに,セクハラならぬドクハラもあるそうです。患者さんの気持ちを逆なでするような軽口が突きつけられるそうです。
 患者さんの気持ちは極度に萎えています。普段ならどうということのないことでも,重く降りかかってきます。一方で,医者の方は慣れのせいで一々気を遣っていられないという状況に落ち込んでいきます。両者共に不幸なタイミングです。これを避けるのはやはり医者の方でしょう。立場に余裕のある方が気遣うのが常識です。
 医者や弁護士などは,先生と呼ばれます。敬意をもって遇されているのですが,それに迂闊に馴染んで高慢の表情が出てしまうことがあります。たとえば,診察室の様子を思い出してみます。患者さんの座らされる椅子に比べて,医者の椅子の豪華さは当たり前になっています。医者と患者の信頼感は,調度の差ではなくて,お互いに病気に立ち向かう仲間としての対等なパートナー関係にあります。医者が治してやるという気持ちをもったとき,対等な関係は壊れます。
 もちろん,実際的には頼り頼られるという関係です。そのまま受け容れてしまう弱さが人にはあります。立場として強い者が気をつけるべきです。医者の倫理とはそこから生まれてくるものです。なぜなら,倫理とは対等な関係を維持するマニュアルだからです。医は仁術という戒めを再確認する度量が求められます。
 医は算術,医者も生活者,身過ぎ世過ぎの徒にすぎない,一介の労働者という考え方があります。それは謙虚さや自らに対する抑制ではなくて,医という役割を汚すものです。医は基本的に奉仕であり,だからこそ感謝として豊かな見返りを得ているのです。医は算術というのは,この順序を逆転しています。見返りを目的として,医を手段にしているからです。
 おかげさまで入院するような病気はしたことがありませんが,家族の入院は経験してきました。いずれもよい治療を受けてこともなく過ごしています。父が医者であったお陰で,お医者さんとのつきあい方に慣れていたこともあるでしょう。少なくとも,信頼を寄せれば大方のお医者さんは応えてくれます。お医者さんは患者が育てるものということです。亡き父はどんな思いで今の医療過誤を見ているのだろうと思います。

(2003年12月21日号:No.195)