《本一冊 読むこともせず 豊かなの》

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 町立図書館の評議委員をしている関係で,どうしても図書館の有り様を注意して観察することになります。図書館といえば,公共施設の代表の位置にあります。どうしても,利用者の公共意識が顕在するようになります。公表している部分についてもかなり気になることがいくつか見えてきます。
 借り出した本に赤線を引いたり,ドッグイヤーと呼ばれるページの上隅を折り曲げたり,必要な部分を切り取ったり,汚損などがあります。公共のものを自分のものと思っているのでしょうか? それとも公共のものだから余計に粗末に扱うのでしょうか? 本に親しむ資格が問われます。
 テレビでビフォーアフターという家のリフォーム番組があります。似た番組がいくつかあるようです。連れ合いが時々見ていますので,完成した後の映像を見ることがあります。また,タレントのお宅を紹介する番組もあります。よそのお宅を覗く趣味はないので,テレビで見ている程度の経験しかありませんが,いつもなんとなく落ち着かない印象を持っています。
 端的に言えば,本棚がないのです。書斎という立派なものは余程でなければないだろうとは思いますが,本棚一つないという家が当たり前なのでしょう。棚の一隅に辞典類や料理のシリーズ本,手紙の本などがあることもありますが,ほとんど飾り感覚です。本屋さんに行くと結構立ち読みをしている方が多く,本も買われているようなのですが,どこに行くのでしょう。
 読んでしまったら,リサイクルの紙に出されているのかもしれません。消耗品扱いです。週刊誌や雑誌ならそれも考えられますが,それ以外にいわゆる本というものを身近に置くという気持ちがないようです。
 週刊誌や雑誌に掲載されて流されていく情報は,きわめて上っ面のものです。情報を掘り下げるとそれは本という形になります。本を読まなくなったということは,世の情報を自分で深く考える時間を失っているということです。
 一度読んでしまった本なら,それは絞り滓なので棄ててもいいではないか? 確かにそれも一理あります。しかし敢えていえば,家族の図書館をささやかながら作っておくという意味を見つけて欲しいのです。お父さんが読んだ本,それを連れ合いが読むかもしれない,子どもが成長したら目にするでしょう。家族のそれぞれが生きてきた道で出会った本は,お互いを理解する上での大事なかすがいになります。たとえタイトルだけでも,それは見えてくるものです。
 豪邸の中を映し出し寝室までも見せてくれるますが,本棚を置かない家には要がないという印象を受けます。何らかの研究をしている者だけが本を所蔵しているものという常識があるとすれば,それはこの豊かな世の中で大きなミステイクになります。心の豊かさを求めるつもりなら,考えてみるべきでしょう。
 本のない暮らしに馴染んでいると,本とは一時のものといういい加減さが無意識に現れてきます。図書館はみんなの本棚なのです。自分が読んだ後は,家族のものとして価値が移っていきます。本に対する思いやりのない読者というのは,文化の破壊者と同類になります。寂しいことです。

(2003年12月28日号:No.196)