《正月に 生きる喜び 感謝する》

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 申年になりました。だからどうしたと開き直られると,それまでです。そんなものは迷信にすぎないと却下することもできます。迷信という廃棄レッテルを貼って,あっさり捨て去ってしまうことが賢いことなのでしょうか? 迷信にしたのは実は自分たちの無知のせいではないのでしょうか。いわゆるエトとは,陰暦で1から12までの数詞を表現するために,ネズミをや牛などの動物シールを使ったに過ぎません。幼稚園などで,ウサギ組とかキリン組という呼称を用いるのと同根です。
 現代人はやたらに意味を知ろうとしますが,実のところ何も考えていないところがあります。人様のことをとやかく言っているのではなく,自戒の思いです。言葉とは本来記号であるということを見落として,表面的な意味に囚われていることがないでしょうか。申年だから,お猿さんがどうこうしたりするというわけではありません。年賀はがきに飾りとして登場し,一年の看板として暦に描かれるかもしれませんが,今年のしるしとしてものの用に立てばいいことです。
 もちろん,申年生まれの方はキャッキャッと騒がしいなどと類推的に結びつけるのはどうかと思います。根拠があるとは思えません。お猿さんの属性を持ち込もうというのが浅知恵になります。時代によって啓蒙すべき事柄があります。その要請をこじつけてもっともらしく印象に残すために記号が使われます。庚申などはその例でしょう。単なる方便と認識しておけばいいのです。記号として伝えたいことが伝わっているなら,それで意味は存在しているからです。ただ,丙午などという風聞はマイナスのメッセージですから止した方が賢明です。
 大事な意味とは,生活の用に足りているかどうかということです。例えば,お正月はご先祖様を家にお迎えする催しの日です。しめ縄は神様となったご先祖をお迎えするに相応しく清浄な家にしているという記号です。その意味を知らなければ,お正月を休む意味がなくなります。お正月はお宮参りをして祈願をする日であるという勘違いが定着していますが,ご先祖様は嘆いておられることでしょう。
 ご先祖様などという虚像を持ち出すのは,時代錯誤かもしれません。しかしながら,自分という命がどこから来て,どこに行こうとしているのか,生きる意味を考える縁としてご先祖という実体を想定した方が分かりやすいのは確かです。自分の命をご先祖と結びつけてみることで,己一人の人生をはるかに超えた時空間を自分のものにすることができます。生きがいなどという余計な惑いは霞のように儚いものに見えてくるはずです。
 自分の命の意味を考える補助線として用立てられてきたものが,暮らしのあちこちに埋め込まれている方便です。エトで年齢を数えると還暦という節目があります。人生60年という一つの目安が記号として設定されてきたのです。ただ単に60歳になったと言うよりも,還暦を迎えたという言い方の方が節目という意味は明らかになります。それがどうした? どうもしません。ただ,自分を大切に考えようとしているかどうかということに過ぎません。

(2004年01月04日号:No.197)