《個性とは 私はわたし 君はきみ》

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 あっという間にお正月休みも過ぎていきました。普段の一週間を過ごすと,すっかり元のペースに戻ってしまいます。年度で段取られている仕事は,これから年度末という締めの時期を迎えます。新春を過ぎてから一年を振り返るという不思議な状況を迎えることになります。慣れっこになっていると奇異には感じませんが,改めて意識すると変だなと思います。
 太陽暦は夜が最も長い冬至を基準にして,翌日からは太陽が元気を盛り返してくると考えて新しい年に代わると数えています。だんだんと昼が長くなって夏至を迎え,次第に短くなっていくのが1年というわけです。ところが,体感する季節は寒暖です。寒い冬の終わるときが一年の終わりで,これから暖かくなるのが新年と考えることもできます。それが初春という一年の始まりであり,年度という括りになりました。
 暦は文明であり,普遍的な基準により,地域差などは忖度しません。一方で,季節感は文化を産み,地方独特の個性的な色合いに染まります。暮らしが文明化されたことで,地域性が失われていきました。情報化ができるのは,普遍的だからです。そこには個性は入り込めません。例えば,方言という個性は,公的にはマイナスとして消そうとされます。方言を話さなくなったら,個性などなくなります。
 価値観の多様性などといわれながら,人と違った考えを持つとどことなく敬遠されます。誰が考えても同じということが,文明の宿命です。そこには個性を軸とする文化は抑え込まれます。文化は暮らしに密着しています。文明に寄り添った暮らしは,人の感性を麻痺させなければできないものであり,文明化の波は感性までも普遍化しようとしてきます。例えば,NHKの紅白歌合戦の視聴率が50%を割ったと騒いでいますが,一億2千万人の半数,6000万人が同じ番組を楽しむという状況は,何とも怖い思いがします。
 都会化することが便利であるのは,普遍的だからです。どこでも同じパターンであるから,同じ行動に対応できる環境になっています。その暮らしに馴染んでくると,地方独特の暮らしぶりは古くて不便なものと切り捨てられていきます。家庭にまで染みこんでいくと,どこの家庭も同じということになっていきます。人にまで及ぶと,誰も同じと思うようになります。かけがえのない人という個性化が薄れていきます。
 人は文化の中で生きてきました。その文化圏が狭くなっています。今手に入れている豊かさが文明のお陰であるから,気持ちの上での豊かさは置き去りになっているような印象が残ります。文化とは何か,じっくりと考えなくてはいけないようです。
 お正月の改まった気分が,ちょっぴり堅苦しいことを考えるように導いたようです。

(2004年01月11日号:No.198)