《積み立てた 言葉に付いた 渋い利子》

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 このコラムも200号を迎えることができました。といっても,それだけのことで,くす玉が割れて音楽が流れるわけでもありません。自分の中で一つの区切りを迎えたと思ってみることにします。リビング北九州紙に「パパな毎日」という連載コラムを依頼されて始めたコラム執筆ですが,平成8年から11年度までの契約期間を終えた後,ちょうどウエブサイトを立ち上げたのをきっかけにそのままネットへの公開という形で連続してきました。足かけ8年間を過ぎようとしています。
 学生時代に綴っていた日記のような感覚で,自分の回りの事柄をどのように受け止めるか,自省と判断をない交ぜにしたような省察のつもりで,気楽に書いてきたことが飽きもせずに書き続けてこられた理由でしょう。どなたかにためになるものでもなく,おもしろいものでもなく,どうということのない,平凡なコラムであるという点だけは意識してきました。市井の人が何を思って生きているか,普通の暮らしを掴んでおきたかったからです。
 長い間仕事柄「先生」という呼ばれ方をしてきたお陰で,どうしても教え諭すという身構えが出てしまいます。ある一部の専門知識については確かに若者に教えることはできますが,それ以外のほとんどのことは門外漢であり,教わる身でありながら,妙なプライドがまとわりつこうとします。人の振り見てわが振り直せの言葉通り,そんな先生面をたくさん見てきたお陰か,自制する回路を組み込もうとしてきました。完全に統制できてはいませんが,できる限り目一杯に作動させようと努めています。コラムを書きながら,素直な平凡さを捕まえようと考え,学びの姿勢を保ってきたつもりです。こんな言い訳がましいことをくどくどと勿体ぶって言うところも,先生っぽいことなのですが・・・。
 ところで,呼び名というのは,結構人の気持ちを微妙に動かします。連れ合いは子どもたちから「おばちゃん」と呼ばれるのはいいけど,「おばさん」は嫌だと言っています。そんなものかなと思います。特に意識したことはありませんが,「おじちゃん」と「おじさん」ではやはり聞く方の印象は違うかもしれません。大学を離れたところでも先生と呼ばれることがあり,そうではないのにという気恥ずかしい感じはあります。○○さんと呼ばれた方が楽なのですが,素性を知っている方にすれば先生という方が単純に呼びやすいだけなのかもしれないとお任せすることにしています。気にしすぎでしょう。
 毎週書き綴っていると,素のままでなければ疲れてしまって続けることはできません。連れ合いとの二人三脚暮らしをベースにして,身近な話題を見逃さないようにしているだけで短い文章は書けます。コラムという形式がことさらに結論を出さなくていいので楽だということもあります。説得しなければならないという課題もなく,言い放しでいいといえば語弊がありますが,未完成であるから味があるともいえます。
 何号まで延ばしていけるか分かりませんが,ゆったりとあれこれ書いていくつもりです。記念号ということで,内容の薄かったことはご容赦ください。次号からをお楽しみに。

(2004年01月25日号:No.200)