《因となる 努力の先に 縁がある》

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 新聞を読むとき,右から左に向けて開きます。つまり,テレビ欄から眺めていくことになります。特に意識してそうしているのではなく,仕事上横書きの文献を開いてきた習性にすぎません。最近はテレビをあまり見なくなったので,テレビ欄に目はいきませんが,下の方にある運勢欄は読んでいます。今日は何に気をつけたらいいのかといった軽い気持ちです。月の順番に見ていくと,まず自分の月,それから連れ合いの月になります。
 毎日見ていると,奇妙なことがあります。運勢の中で,例えば,助けてもらうなら○月の人がいいなどと書いてあることがあります。その月がどういうわけかほとんど連れ合い共々お互いの月なのです。相性がいいのか,腐れ縁なのか分かりませんが,運命的であるようです。当人同士は一向にそんなつもりはなく,ただ不思議に思っています。人様にとっては,それがどうしたのという程度のことです。どなたにもご迷惑ではないはずで,二人で面白がっていればいいのです。
 世の中のいろんな事は,考えてみたところで答えが出ない場合が多々あります。どうしてこんなにうまくいかないのか,そんなときは運命と諦めればいいでしょう。考えても仕方がないことは考えるだけ無駄だからという中途半端な諦めよりも,運命のせいにした方がすっきりします。うまく運ばない時を運命のせいにするなら,うまくいっているときも運命のせいにした方がいいでしょう。人はとかくうまくいっているのは自分の努力や能力のせいだと思いたいものです。自分をほめてあげる快感があるからです。でも実際の所,人が思うようにできることなどわずかなものです。人の縁による助けやたまたまうまくいった程度です。そう考えれば,運命に関わってくれた方々に感謝することができます。
 してくれてもいいのに,してくれるべきだと考えていると,人を責めたくなります。運命に委ねてしまえば,少なくとも人に対して恨みや妬みを向ける必要はなくなります。運命などという古くさいものを持ち出していますが,生き方の方便として結構救いになるものです。荒唐無稽なものと棄却するのは簡単ですが,人は全てを支配できるはずもなく,その未知な部分を単純に運命と名付けておけばいいのです。気持ちが安寧になれるなら,取りあえず信じておくことも大事です。
 宗教はその真髄に許しという概念を秘めています。許しとはどうにもならないことがあるという達観に根ざします。身を委ねてしまうのは,自分を大した存在ではなくて神の手にある者という控えめな信心から可能になります。神がいるとかいないとかは問題ではなく,単純に信じる者は救われているだけです。神という存在を想起するかどうかは個人の選択ですが,神を信じなくても,自分を絶対と思うことは避けた方がいいでしょう。なんとなく運命かな,そう考えることができたら,楽に生きていけるはずです。先人の知恵をいい加減な理屈で消せると思うとき,天罰が下ります。ちょっぴり,殊勝な気持ちになってみました。

(2004年02月01日号:No.201)