《不信の目 どなた様でも 信じない》

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 識者の口から,頻繁に「だから,日本人は・・・」という発言が飛び出してきます。胡散臭いものを感じるのですが,それは偏屈でしょうか? 1億2千万人がそれほど単純に特徴づけられると思っていることが不思議です。少なくとも,男には女は分かりません。今時の若い者は,今時の子どもはと不明を嘆く一方で,日本人が分かるという勇気を持てる方がどうかしています。
 自分の家の周り,半径100m以内に住む人をすべて知っていることもないのに,日々往来で行き交う人とすべて挨拶を交わすほどの知り合いの間柄でもないのに,親族・姻族を数親等までしか辿れもしないのに,日本人のことを語るとは,虚け者に他ならないと思いたくなりませんか? 一人が生涯に知りうる他人は何人いるでしょうか。日本人と言う場合は,ほとんど一面識もない人たちのことです。知りもしない人のことを,ああだこうだと言えるとは?
 逆のことも考えられます。時の総理大臣と知り合っている人はいったいどれほどいるでしょう。画面の中で見知っているだけの人を,よくもあんなにこき下ろせるものです。いろんな風聞がマスコミ情報として届いてきますが,それは人を何段にも介した噂話とかわりません。噂がどれほど途中で変形するかを知識として知っていても,それがマスコミ情報に対して適用されることはありません。見てきたようなという言い方がありますが,情報のゆがみを考慮しないと,知らないままに人の尻馬に乗ってしまうだけです。
 マスコミは情報を売っています。買ってもらわなければ,会社としてはつぶれます。買ってもらうためには,買い手が求める情報を売らなければなりません。買い手が買いたくなる情報に加工しようとします。悪意ではなくても,甘みを持たせてしまいます。強者に楯突いてみせる,こき下ろしてみせる,醜聞を穿ってみせる,という迎合が見え隠れします。その証拠に,新聞はどれを読んでも論調は同じです。新聞同士が立場を異にすることはありません。政府予算案にしても,あれがダメこれがダメと突き回すだけです。よかったということは,読者が求めていないから,書けないのでしょう。か弱き民の味方という立場は,文句をつけていさえすれば事足れりというていたらくです。
 選挙で選ばれた人をこき下ろすことは,国民への裏切りにならないのでしょうか? 日本人が選挙で選んだ人は,こんなにいい加減な人ですよと言いふらすのは,どういう立場なのでしょう。自分は日本人ではないという立場でしょうか? 勘ぐれば,日本人よ,あなた達は愚かですよと吹聴していることになります。それに悪のりしている日本人も,自分で自分の愚かさの尻尾を追い回しているようです。同じことは市町村,組織レベルまで重ねることができます。自分たちが選んでおいて,その選良に文句をつけるという捻れは,どう考えても不可解です。
 政治離れが進んで投票率は低落していますが,実のところ,自分自身の不実が反映することを怖がっているのかもしれません。もしも自分が選ばれたら不誠実になるという類推を日本人すべてに重ねるから,信頼できる人がいないと錯誤しているのでしょう。自分を信じられない人に,人が信じられるはずがないという単純なことです。いささかふて腐れた論を遊んでみました。

(2004年03月07日号:No.206)