家庭の窓
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2月終わりの新聞にニホンザルの群れの話が載っていました。話題はボスはいなかったという顛末です。大分県にある高崎山のサル山にはボスがいて,群れを統率していると教えられてきました。子どもの頃,エサをねだってくるサルたちにおそるおそる近寄った想い出もあります。身体の大きいオスザルが小高いところで偉そうにしているのを見て,あれがボスザルかと皆で話し合ったものです。
京都大学の先生が1954年に餌付けに成功して観察した結果,ボスを中心にメスが取り巻き,その外周にオスたちがいるという図式を発表しました。それ以来,サル社会の構造のモデルとして流布していったそうです。ところが,それは既に過去の見方で,20年ほど前から研究者の間では,群れを支配するボスはいないというのが常識だそうです。もちろん群れの中には第一順位のオスがいますが,サルたちは群れの中で気ままに暮らして,支配関係はないということです。
サルの世界では幻であったボスは,人間世界ではいるようです。だからこそ,サル社会に人間社会の縮図を投影できたのです。でも,それは思い過ごしでした。ボスは自然なもの,普遍的なものではなかったのです。逆に,人間社会が特殊ということの検証になります。ボスのどの辺が不自然なのでしょう? リーダーであることはいいのですが,あらゆる領域で支配しようとする欲張りな点が行き過ぎなのです。仕事上の役割としての支配は必要なことですが,仕事以外にまで支配関係を持ち出すと越権行為です。面倒を見てやるという恩着せがましさがありがた迷惑であるのは,余計なことだからです。
余計な口出しをして当然という態度がボスの姿ですが,それは本音という自然体とは相容れるものではありません。長いものには巻かれろという我慢を強いているのですから,不自然なことは明らかです。無理をする社会は居心地のいいものではなく,廃れていくでしょう。ボスの異称でもあるワンマンもイメージは横暴というものであり,理不尽な横車を押してくると思われています。どの言葉も自然や理に反するという意味合いです。
最も近頃は人間世界でもボスは見られなくなってきました。人が我慢しなくなって,ボスが受け容れられなくなったようです。それだけに集団が鶴の一声で動くという離れ業は見られなくなりました。人々を動かそうとすると,とても大きなエネルギーを消耗します。人の言うことに関心を持とうとせず,ましてや聞き入れて動いてみようとはしなくなったからです。あの人の言うことだったら聞いてもいいという関係が,外見的に縦の支配関係と似ていることが嫌われるのかもしれません。
共生というキーワードが聞かれますが,実際上何か活動を始めようとすると,引っ張る人と引っ張られる人の役割分担が不可欠となり,並び立つという共生のイメージが曇るような気になります。ボスというものを産み出しかねない恐れがあるからです。単なる役割にすぎないのに,人としての順位と錯覚してしまう弱さがまだ払拭できていません。リーダーが余計なことまで偉そうに指図してしまうということです。あなたの傍にいらっしゃいませんか?
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