《自己主張 やりすぎ背負う 自己責任》

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 ひところ自己責任という単語が注目されました。世情は自己満足が主流であり,自己主張が蔓延しています。人のつながりが薄れ,他人に気遣いする必要がなくなって来たせいで,自己主張しやすくなったのでしょう。巷間には女性のわがままが席巻している様を嘆く不甲斐ない男性の声もあります。物事がうまく運ばないときには,その原因を外に求め,責任を追及してやみません。自己主張は攻撃型であり,自らに目を向けない弱点を抱えています。
 攻撃は勝つことを目指します。他を屈服させることで自己満足を勝ち取ります。自己主張は自らの完全性を前提にしているので,攻撃がどんなに過激になっても正当な言動という呪縛から逃れることはできません。そこで,この行動パターンには際限がないという落とし穴があります。第三者の目から見れば,行き過ぎてしまいます。バランス感覚を保持するには,常に自己の未熟さを意識しておかなければなりません。それが自己責任です。
 最近の国会議員による年金未納騒動の顛末は,攻撃型の愚かさ部分を露呈しました。他人の不完全さ・落ち度を攻撃することは,同じ強さで自分にはね返ってきます。人と人は対等であるということを見失ったとき,人の関係は破綻します。人は間違えるものです。その間違いを気付かせることは大事なことです。それを攻撃のターゲットにするのは,大人げないことという感性を持ちたいものです。それは自らの弱さを自覚していることにもなります。人間としての品格です。
 若い女性タレントが結婚について問いかけられたとき,やりたいことがまだまだたくさんあり,人生をエンジョイしているから,結婚は考えていないという返事が聞かれます。自己満足に浸っているから,結婚という選択肢はあり得ないということです。数十年のつかの間十分楽しんで老いさらばえて,生涯を一人で終えていくのでしょう。自分の遺伝子を残そうとするのが生物としての自己主張ですが,その自然の主張に逆らおうというのですから,大したものです。自己主張が自己満足という享楽に変質しています。おそらく遺伝子は増えすぎた人類を減らす機能を発揮してきたようです。人類としての自己責任がかすんでいます。
 人は一人では生きていけない。理屈では誰でも分かっていることでしょう。しかしながら,住んでいる世界が地域を飛び越えて大きな社会に拡大し,人とのつながりが見えにくくなっているために,自分一人で生きている,誰の世話にもなっていないという感覚に溺れています。自己主張できる社会になりましたが,同時に他者主張も認めなければ不公平です。他者を攻撃すると同時に,他者も守備することが必要です。それが共同生活を営む上での鉄則でしょう。人の世の有り様をきっちり意識するようにしないと,道を踏み外していく流れが増大するような不安を感じています。

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(2004年06月06日号:No.219)