《時を経て 残るものこそ 楽しけれ》

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 書棚に並んでいる本を眺めていると,色褪せた本があります。見た目ではありません。一度しか読んでいないので,ほぼ新品同様です。しかし,その本が呼びかけてくる声は,しゃがれて力がありません。内容が古くなっていて,型遅れの電気製品と同じなのです。いっぽうで,見た目にも古い本ですが,今でも手にとって読んでみようと思わせる本もあります。時を越えた内容のある本です。
 雑誌は原則として1年で廃棄処分にしています。時勢にマッチした新鮮なニュース性の強い内容は,年月に直結しているために,時の流れと共に過去に向かって流されていきます。今という時に何も残してくれません。新聞はその典型で,明日と昨日という月日にリンクしているので,天気予報と同じで,昨日の新聞は意味が極端に薄れてしまいます。かろうじて,時系列の推移を見るために,データベースとしての切り抜き記事が命を長らえています。
 今日の具体的な事象,出来事,そのものはニュースとしての価値を持ちます。またコンビニ強盗があった,被害額はこれこれ,けが人はなかった,犯人の特徴はかくかくしかじか。その記事は一晩寝たら忘れられていきます。今日は何が起こったか,その関心に対して昨日起こったことはほとんど意味がありません。そんなことがあったなというかすかな記憶が精一杯です。
 O.W.ホームズという米国人が,「知識と材木はよく乾燥してから使え」という言葉を残しています。時と共に枯れていく情報部分が抜けた時,変わらない知恵が残ります。時を越えたら,時を選びません。不変という永遠性を獲得します。歴史上の人物が語った言葉も,十分に共感できます。古典が常に新しいと感じるのは,枯れているからです。
 迷える凡人にいくらかのよい影響を与えてくれる人は,風貌がどちらかといえば枯れているというのは偶然でしょうか。枯山水という風景を愛でる感性があります。今日に執着すると見えなくなる,そこに不変不滅なものが潜んでいるという洞察がありました。目新しい情報に囲まれて,今日だけを追いかけている暮らしの中で,何かしら落ち着かない,これでいいのかという漠然とした思いは,枯れることを忘れたせいです。
 枯れるなんて,とんでも無いと受け止められるかもしれません。今は若々しくなければ価値がないというご時世です。でもそれは過ぎ去った青春という未熟さへの執着であり,今を誠実に生きているのではありません。年相応であろうとすることが今を大事にしていることであり,それが枯れていくことなのです。自然に生きることが,最も楽であり,幸せへの道筋でしょう。

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(2004年06月13日号:No.220)