《共感の できる声には 詩情あり》

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 田んぼに水が入って,ゲロゲロ,グァグァとカエルの合唱がにぎやかです。毎年の恒例ですが,その都度,一つの疑問が繰り返されます。田んぼに水が入るまで,カエルさんたちは何処にいたんでしょう? 田んぼに水が張られる前に,土がコンバインで掘り返されます。土の中に潜り込んでいたのなら,さぞかし怖い目に遭ったかもしれません。いずれにしても,太平の眠りを覚ます蒸気船ならぬ,水の冷たさということでしょうか。
 カエルは何のためにあんなに大騒ぎをしているのでしょう? 合唱を楽しんでいるのでしょうか? カエルがそんなに文化的だとは思えません。もっと本能的なものであると考えた方が,カエルのためです。雄のカエルが自分のいいところを見せようと必死になっているのだそうです。人がそう感じているに過ぎないですが,そういうことにしておきましょう。いいところを見せると言えば,それは雌のカエルに対する自己アピールです。
 良い遺伝子を残すという自然の生き残り試験は,良い声という科目があるのです。不合格者は独身のままになるのですから,嫁取り合戦もたいへんです。ガンバレ,カエルたち。そのエールを,やせガエル 負けるな一茶 これにあり という俳句に詠ったのが一茶でした。当時の一茶は若い嫁との頑張りの最中であり,他人事に思えなかったのでしょう。大人の味わいを含んだ句として,再鑑賞してみるのも風流です。
 所用があって,週に数度,中央公民館に出かけます。待ち合わせの間にロビーで文庫本を読んでいるのですが,5時頃には会議等が終わり,来館者がロビーに出てきます。そのときのおしゃべりは,館内に響き渡ります。うるさいというレベルをはるかに越えて,声高に話す人が溢れます。静かに話せばいいのにと他者は思いますが,そんな気配りはほとんどありません。うるさければ向こうに行けばいいという風情です。
 このごろ,公共施設における傍若無人さを見かけるようになりました。辺りに誰も見えない場合でも,ドア一枚向こうでは静かに仕事や何かをしている人がいます。自分の声がどれくらいのレベルか,それを自己確認する神経回路がフリーズしています。カエルの合唱ほどの切実さがあるのなら許されもするでしょうが,当人たちには楽しい談笑であっても傍迷惑になります。施設の外に出てからにして欲しいものです。
 意地悪を言うつもりはありません。そんなことぐらいに目くじらを立てるのは大人げないことです。でも,仏の顔も三度まで,です。いい加減にしてもらいたいと思うのは野暮でしょうか?

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(2004年06月27日号:No.222)