《ちょっとした 縁を大事に 生きてみる》

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 この世の出来事は,森羅万象と総称されます。あらゆることが縁でつながって,行方が定まらないように見えて,成るようになっていくものです。虚無的に捉えれば,何も分からないという諦観になります。考えても無駄なことということです。そこで,運を天に任せるしかありません。その天とは人智を越えていますが,デタラメではなくて,それなりの論理に従っているはずであるという信仰の産物です。
 何が縁になるか分からない,という経験を誰しも持っています。あのときこうしていたら,でも実はそうしなかった現実との間は偶然に左右されていると思わざるを得ません。別の選択があり得たと気が付いても,後の祭りでしかありません。人の知恵は本質的に後の祭りです。かろうじて先人の轍を踏まないようにすることで,後生は難を逃れることができて,多少は先に進むことができます。その経験による知識の集積が,縁というつながりを解き明かして来ました。
 一つの種があります。生育すれば何かに成熟します。物事にははじめの種が必要です。しかし,その後の生育については縁が絡まないと進行しません。種を畠に置いて土と触れさせる,肥料や水分を与える,日光も要ります。種を袋に閉じこめて孤独にしていては,何も起こりません。縁が結べないからです。さまざまな縁がどのように効いているのか,本当のところは複雑で読み解くことはできないでしょう。読めないから必要ないと捨てていたら,どこかが違ってしまいます。
 テレビを見ていたら,発酵学の専門家の話が聞こえてきました。成果を示す証として,化学肥料で育ったトマトと発酵による堆肥の土地で育ったトマトを比べていました。見かけは全く見分けの付かない二つのトマトを水に漬けました。化学肥料によるトマトは浮きました。堆肥育ちのトマトは沈み,中の種もしっかりとたくましく,皮は硬いのですが中味はみずみずしくて,まさに次の世代に命を引き継ぐ健康なトマトでした。堆肥という豊かな自然の中にあるとき,トマトはあらゆる縁に囲まれて,幸せに育ったのです。豊かであるとは,取るに足らない微小な縁(成分原子)も疎かにしないということです。
 袖すり合うも多生の縁。一期一会。たった一度の縁に過ぎなくても,それを大事にしようという心遣いをこそ,豊かな生き方というのでしょう。そんなものが何の役に立つ,煩わしいだけではないか,そのように人智に頼って切り捨てている生き方は,さっぱりしているのですが,化学肥料育ちのトマトと同じで,どこか自然ではありません。人の心が最近何かしらおかしいと感じるのは,豊かな縁を断っているせいです。自分という種をちゃんと育てようと願うなら,あらゆる縁に真っ直ぐ向き合うことです。本物になれるはずです。そう信じています。

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(2004年07月04日号:No.223)