《一夏を 生きるトンボに 教えられ》

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 いつの間にか蝉の鳴き声が途絶え,赤とんぼが肩口を一緒に飛んでいた夕べも過ぎていきます。蝉は5年間の地中での暮らしの後,2週間の夏を生きています。人は時折「何が楽しみで生きているのか?」と問うことがあります。そばに寄ってきたトンボにも尋ねてみましたが,完全に無視されました。何かを楽しむために生きているのではないと,前庭のコオロギが教えてくれます。生きているだけで充分ではないか,他に何を求めようとするのかと,家の壁に残っている蝉の抜け殻が目に語りかけてきます。
 命短い生をはかないと感じることが,すでに自らの生を楽しんでいない証でしょう。日々を精一杯生きようとしないで,他に何の楽しみを追い求めるのか,凡人の心の曇りは深いようです。楽しむために生きるという本末転倒した錯覚が,最近頻発している生命をないがしろにする不可解な事件の底に横たわっているような気がしています。何のために生きているのかという疑問を持つことが,パンドラの箱から漏れ出た最大の災いだったのでしょうか。
 「夜眠る前に明日の朝起きるのが楽しみですか?」 楽しみであるなら,あなたは幸せです。疲れて眠るだけが楽しみなら,永眠すれば幸せかも? 明日を迎えるということは,生きているということです。そして明日が楽しみであるとは,まさにパンドラの箱にかろうじて残された希望の基本形です。今日を精一杯生きていれば,明日という日を迎えられる楽しみが生まれます。
 人には欲望があります。根元的な食欲は生きるための点火機能です。空腹の時の食事は美味しいという快感をもたらしてくれます。その快感につられて生き延びていくことができます。ところがその快感に耽溺して美味を追求するグルメ道に踏み込んだとき,生きるための食欲が暴走し肥満という副作用が発症します。欲望とは満たされない常態があってはじめて有効に働きます。豊かさが欲望を退化させる作用をもたらせばよかったのですが,それは後天的に獲得すべき宿題として人に課されていたようです。
 生きているという楽しみを見失ったために,かりそめの楽しみに耽るようになり,その虚しさに取り込まれていきます。宿題に真摯に取り組み,生き方の芯を取り戻したいものです。

(2000年09月10日号:No.23)