《目にウロコ 耳にもウロコ あると知り》

  Welcome to Bear's Home-Page

 世代の違いを感じてしまうことがあります。例えば,流行歌です。若者の音楽には不感症になっています。自分が若い頃には騒々しいロックに魅せられていたのに,今の音楽にはうるさいだけの感じしか持てません。同じ音楽を耳にしながら,その受け止め方は雲泥の差が現れます。音楽そのもののせいではなくて,聞く耳の感性が違っているためです。価値観も似たようなところがあります。いわゆるお宝は関心のない者には無価値ですが,収集家には貴重なものに思われます。タデ食う虫も好きずきと言われる男女の仲も同じでしょう。
 「秋深き 隣は何を する人ぞ」という句があります。隣人のことを何一つ知らない孤独な都会人のイメージを表現しようとするときに,しばしば引用されています。その後,だからもっとつきあいを大切にしなければならないと,話は続けられます。自分は隣人のことはよく知っている。それなのに隣人を知らない人がいるのは信じられないという思いが,この句に閉鎖的なイメージを感じ取っているのでしょう。
 隣人をよく知らない人の感性にシフトしてみます。考えてみれば忙しさにかまけてお隣さんがどんな人か知らなかったなあ。どんな人なのだろうと関心を持ち始めたときに,この句が詠まれています。もちろん,秋という季節がそう感じさせています。隣人に対する関心が浮かんできたということは,人のつながりに目覚めたことなのです。決して孤独に閉じこもろうとしているのではありません。この句を悪い例として引用したのでは,かわいそうです。そんな「つもり」で詠んだのではないのにという作者の声が聞こえてきそうです。
 情報の豊かな社会になりました。そこで生きていくときに最も気をつけなければならないことは,自分の感性を柔軟にすることです。情報からは発信者の「つもり」が欠落して,受信者の感性が張り付けられます。「つもり」は聴く側にもあります。平たくいえば,自分に都合の良いように聞くということです。お互いの「つもり」がずれると,情報は誤解されて意味が変わってしまいます。十分気をつけましょう。

(2000年09月17日号:No.24)