《礼法を 厄介払い トゲが出る》

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 2004年の夏は,暑い日が続きました。お盆を過ぎたら,残暑お見舞い申し上げます,という時節です。ところで,マナーのメルマガを見ていると,「お見舞い」のことが書いてありました。お見舞いとは目上から目下への言葉で,「お伺い」が目上に対する言葉だそうです。企業からも残暑お見舞いになっていますが,残暑お伺い申し上げるのが正しい礼法ということです。礼儀にうるさい方へお出しすることもなかったので,今まで知らないでいました。
 礼儀という意識が希薄になって来たような気がします。同時に,人付き合いが難しくなってきました。青年,壮年,熟年と過ぎてきた年齢による感じ方の変化とは違うようです。礼儀作法という堅苦しいものは意味がないから要らないと捨てたお陰で,人はむき出しの姿で付き合わなければならなくなりました。自然のお付き合いは,所詮粗野になります。礼儀とは先ず相手のことを大切にしようとする思いを形にしたものであり,礼儀を捨てるということは自分を大切にということになります。お互いに醜い自分を前面につきだしていけば,仲良くなれるはずもありません。
 あるマンションの自治会で,自治会費のずさんな経理がトラブルになり,役員同士の諍いになりました。もめ事には関わりたくないという住民の尻込みもあり,仲介に入る人もなく,声の大きい方の言いがかりが跋扈していきます。一つ屋根の下に住むもの同士がいがみ合っても,それを静まらせようという雰囲気がないというのは,いかにも人の世の虚しさを感じさせます。
 子ども世界のイジメも,イジメと自覚することなく,ただ思うがままに言動しているだけですが,相手はつらい気持ちを押し付けられることになります。それを抑え込む空気が子ども世界にないということが課題なのですが,煎じ詰めていけば大人世界の写し絵であったということです。いずれの場合とも,人のつながりが全くないという状況です。ただ隣り合わせているに過ぎない,乗り合い状況ということです。
 礼儀作法を捨てたお陰で,人との付き合いが角をぶつけ合う仕儀となり,痛みを伴うようになってしまいました。相手の立場を意識することをしないから,ちょっとした行き違いも大仰に騒ぎ立てるようになります。周りは火の粉が飛んでこないところまで退いていきます。そんなときに誰かになんとかしてくれと助けを求めても,人付き合いをしてこなかったツケを回されて,引き受ける人はいません。
 もちろん,公的な支援機関も私的なトラブルをすべて想定できるものではないので,用意されてはいません。法に訴えることができる場合もあるでしょうが,それはアメリカ流の訴訟社会になるということであり,たとえ隣人であろうと人を信じない社会になるということです。時代がそういう向きに進んでいるということですが,社会は人が作るものであると考えれば,そろそろ真剣に考え直した方がいいのではないかと思われます。新しい地域社会,そういう風がかすかに吹き始めていることに期待しましょう。

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(2004年08月29日号:No.231)