《ちょっとだけ 積み重なると 手に負えず》

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 新潟県中越地震は余震が止まずに,避難されている方も安らかな住まいに帰ることができずにいます。ひたすら早い終息を祈ります。報道の中で長岡市の災害ゴミの撤去が思うように進まないという話が出ていました。予想を超える量に回収能力が間に合っていないということです。一挙に搬出される災害ゴミは通常の回収では賄えないのは当たり前ですが,便乗ゴミが上乗せされているようなのです。資源ゴミなど有料の回収になっているゴミが,災害ゴミに紛れ込ませればタダで処理できるという思惑から,この際にと排出されているのです。一つや二つぐらいという軽い気持ちでしょうが,数が増えると膨大なものになります。
 人は日常では個人レベルまでしか気働きができません。個人が持て余すゴミは,全体でもそのまま持て余すゴミになるということを想像できません。一人当たり1個のゴミは,一万人では1万個のゴミになります。もちろん通常はゴミを出す日にちがバラバラなので,一回当たり数百個のゴミ処理で済んでいます。ところが一斉に出されると,1万個になってしまいます。今ならタダという便乗のチャンスが,一斉にという動きを喚起してしまうのです。それにしても,そんな僥倖をしっかり掴むというすばしっこさには感心させられます。ただ,その手のすばしっこさは所詮ほめられたものではありませんが・・・。
 公共との付き合い方が拙くなってきています。かつて地球環境は有限であるというローマクラブの宣言がありました。聞いたことがあるという程度で,さっぱり暮らしに生かされていないようです。環境は一人ひとりの守備範囲が積算されたものであり,自分の領分からはみ出した分や,余分に取り込んだ分はそのまま環境には負債になります。個人の世界が環境の一部でしかないと思うのが心得違いなのです。一部ではなくてすべてです。公共は自分の責任範囲を守れる者だけが暮らせる場です。
 家庭でも状況は同じです。家族のそれぞれが自分のことを手抜きすれば,その分母親や奥さんに降りかかっていきます。ちょっとぐらいという気でしょうが,人数が増えると雑務は一人の手に余るようになります。何らかの組織でも同じです。構成メンバーが自立した分担をしていないと,役員や事務局の負担は大変です。よく口にする言葉があります。「何でも言ってください,できる限り協力しますから」。協力という言葉は部外者が言う言葉であり,メンバーの言葉ではありません。もし,「あなた自身の役割なんですよ」と言ったとしたら,おそらくムッとした顔つきをされるでしょう。仲良く助け合うのが暮らしの鉄則ですが,助けて貰うことばかりの人が多いような気がしています。その証拠に,巷では不平や不満の声がたくさん聞かれます。自分がやるべきことをちゃんとやっていれば,人を責めることも少なくなると思うのですが・・・。

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(2004年11月14日号:No.242)