《居る場所を 知っているから 分かりあえ》

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 痴呆症の連れ合いを抱えている夫が,連れ合いの惚けた発言に振り回されて,つい口論になる毎日に嫌気を指しています。母親を抱えている娘が,母によかれと考えて世話をしていても,母親のほうはどう思っているのか,曖昧なままに自信を失っています。NHKのレポートで,そんな話が取り上げられていました。第三者として痴呆患者の話を聞き取っている方がいます。患者の思いを聞き取ることで,痴呆を抱えている患者がどのような悩みや要望を持って生きているのかを知るためです。
 患者さんの思いを聞いて欲しいという依頼を受けて,妻や母親から話を聞いて,夫や娘に伝えていました。痴呆患者も不安におびえていること,ありがとうと思っていることなどが分かりました。長い間一緒にいてくれたから精一杯面倒を見てやろうと語る夫,世話をしている気持ちをきちんと受け止めてくれていると知ってうれしく感じた娘,お互いの気持ちが第三者を通じて届いている姿が映し出されていました。
 家族や肉親には甘えやわがままが出てしまい,ついつい言葉の順序が前後したり,言い足りないことがあるのでしょう。家族に向けて素直になれないのは,どういうことでしょう。ゆったりとした気持ちになれる雰囲気づくりが上手ではないのかもしれません。形として向き合おうといるからでしょう。世話を掛ける人と面倒を見る人は,どうしても向き合ってしまいます。お互いの存在が自然に役目柄という関係の中に隠れてしまいます。傍に並んで窓の外の風景を見るといった形に入ると,とりとめもない話ができますし,気持ちを通い合わせることが簡単にできるはずです。傍にいてくれる人というのは,世話をする人される人という役割を忘れた所にいる人のことです。同じものを見て感じて語り合えるとき,並んでいるお互いの気持ちを素直に共有することができます。
 近い関係であれば,分かっているはずという思いこみもあります。分かってくれてもいいのにという思いも噴き出します。でも,病気などによって一方の境遇が違ってくると,細かな部分の理解が滞るようになります。そのことを弁えていないと,伝わっていないことに気付きません。具体的に小さなことから確認し合うという,濃密なコミュニケーションが欠かせなくなります。お互いがどこにいるのか,その確認を怠らないようにしていきたいものです。
 我が連れ合いは仕事やボランティアで家庭の外に居場所を持っています。詳しい状況は知るよしもありませんが,洗いざらいを送迎の車中で聞かせてくれています。何を思い考えているかの話が中心になりますが,そこから客観的な事実だけを組み上げています。そうしないと,判断が連れ合いへの身びいきに片寄ってしまうからです。基本的には身びいきでいいのですが,共々に道を逸れては困ります。軌道修正の必要なこともたまにあります。何でも話してくれているので,なんとかやっています。

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(2004年11月21日号:No.243)