《人の縁 あって和やか まちの風》

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 塀の向こうに田圃があります。刈り取られた稲の株がそのままに放置されていて,新しい稲が伸びて青々としています。水は張られていないために稲は寸足らずですが,ちゃんと稲穂ができています。収穫ができるのか分かりませんが,形はすっかり稲穂です。スズメたちが朝の食事にやってくるところを見ると,一応お米ができているのでしょう。田んぼは一面が緑の平面になっています。朝雨戸を開けると,ちょうど日差しが横手から田んぼに差し込んでいました。太陽が低いので家並みの間から漏れてくるような差し方です。全体が陰になっている田んぼに,細くて鮮やかな緑の輝きが走っています。陰の中に光があると,鮮明な映像となって目に映ります。
 昼前のことです。ご近所でペパークラフトを主宰されているご婦人が道沿いの田んぼにしゃがみ込んで,そのかわいい稲穂を大事そうに刈り取っています。傍でご主人がビニール袋を広げて,選び抜かれた稲穂を受け取っています。お正月用のお目出度い飾り物の材料として使われるのでしょう。前に連れ合いがボランティア仲間であるその年上のご婦人にちょうどいい稲穂があることを教えてあげようかなと言っていたのを思い出しました。多分予め持ち主の方との間で話が付いていたのでしょう。連れ合いに報告しておかなければ,すれ違いになります。
 田んぼであったところが宅地に変わっていきます。昔は我が家の宅地も田んぼだったそうです。地域の方から,かなり向こうまで見晴らしがよかったと聞くと,転入者の増えてきたことを我がことも含めて感じ入っています。父の転勤や自分の進学のために転居を重ねてきて,この地に流れ着いた縁をぼんやりと考えています。出会った人との縁が積み重なった結果であることだけは確かです。お陰でご縁は広がりを見せて,この地にすっかりと馴染んで暮らすことができています。
 何の変哲もないただのまちですが,周りの人との和やかなつながりがあるということが住みやすさを与えてくれています。ただの住屋ではないということの条件が人との小さな縁だということに思い至ります。もしも誰とも縁がない住まいであれば,住みにくいだろうと思います。確かに我が家という内部空間は快適であっても,そこに閉じ籠もっている暮らしぶりは寂しいものでしょう。若い頃に家族だけのアパート暮らしをしたまちは,生活に関わる店とのつながりだけで,人との縁は全くなかったので,自分のまちという感覚は湧いてくることはありませんでした。
 幼い頃に転地をくりかえしたせいでふるさとを持てないでいた寂しさが,深いところで人との縁をつないでおこうとする気持ちを高めていたのでしょう。庭木に遊びに来るスズメに語りかけ,田んぼを照らす陽光に見入りながら,まちに住む命や自然との縁を広げようとしています。秋深き隣は何をする人ぞ。秋の人恋しさに包まれています。

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(2004年11月28日号:No.244)